配流された隠れキリシタンの墓(福昌寺跡):鹿児島市

明治時代以降

概 略
 キリシタン最後の弾圧となった浦上四番崩れ(1867年、慶應3年)・・・長崎県浦上村で隠れキリシタンの存在が発覚し、伝道師高木仙右衛門を始め浦上村の一村全員が総流罪となる事件で、3400人とも4000人とも言われるキリシタンが大和郡山・津和野・萩・松江・鳥取・福岡など西日本の20の藩に分散留置され、改宗を迫られました。神道を国教と定めた明治政府にかわってもキリシタン政策は引き継がれ、流刑地で命を落としたキリシタンも多かったようです。 
 富国強兵・殖産興業を進める明治政府は不平等条約を改正するために板倉使節団を欧米に派遣しました。そこで日本はキリスト教禁教の野蛮国と見られている事が条約改正の妨げになっている事がわかり、1873年(明治6年)禁教を解きました。

 本稿の隠れキリシタン墓は1868年(明治元)鹿児島藩へ預けられた375人の中で1873年までに命を落とし、昌福寺墓地に眠る53人の墓を紹介します。

 鹿児島藩へは平穏丸に乗せられた375人が預けられ、1873年(明治6年)に帰国するまで廃寺であった福昌寺に収容され、その間に他界した53人が昌福寺の裏山の墓地に葬られました。また、13人の赤ちゃんが生まれ、330人が鹿児島丸で長崎に帰ることができました(明治維新と鹿児島見て歩き)。

 キリシタン墓地は薩摩藩主島津家墓所(福昌寺跡)のすぐ裏山にあります。苔むした自然石の上面に十字が線彫りされています。

 この墓地に眠る53人の方々は故郷大浦村へ帰ることはできませんでしたが、新たな13人の赤ちゃんを含む300人が帰って行きました。

  散在していた墓をラゲ神父が1905年(明治38年)にこの地に集めたものです。

基督降生千八百七十年ヨリ千八百七十三年に至ル間ニ於テ長崎浦上〇公教信者ニテ信教ノ為メ追放セラレ此地ニ没シタルモノノ紀念ニ此レヲ建ツ   明治三十八年

 ヨーロッパ・アメリカとの貿易を望む明治政府は信教の自由を望む西欧諸国の圧力に抗しきれなくなり、1612年より続いてきた禁教令を1873年(明治6年)日本政府は廃止し、信徒を釈放しました。
 信教の自由が広まる直接のきっかけとなったのが浦上四番崩れによるキリスト教弾圧でした。

関 連
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