概 要
伊勢崎藩主酒井家初代忠寛、6代忠良の墓は領地伊勢崎ではなく前橋市の龍海院に儒式墓として立っています。一方2・3・4・5・7代藩主の墓は江戸藩邸のある浅草の崇福寺で仏式で営まれました。
龍海院の前橋藩主(後姫路藩主)酒井家の墓は4代忠清から儒式墓にかわり、それは初代会津藩主保科正之の朱子学に傾倒した5代忠挙の影響だと考えました。そして伊勢崎藩主酒井家初代忠寛は忠挙次男ですから、尊敬する父忠挙に忠孝を示すためにも側で眠りたかったのでしょう。
伊勢崎藩士たちの墓は伊勢崎市内の寺で、儒式墓(家老関家の墓)或いは仏式墓として営まれました。
1.伊勢崎藩初代・6代藩主の儒式墓(前橋市龍海院)


伊勢崎藩酒井家初代忠寛の儒式墓 下野守従五位下酒井忠寛君墓
伊勢崎藩主を16~38歳まで勤め、見附門番や日光祭礼奉行などを歴任する一方で、藩の家老などの職制や治水工事に尽力するなどして藩政の基礎を固めたそうです。
過去帳には戒名(顕崇院殿雄安泰英大居士)が残されています。


伊勢崎藩6代藩主酒井忠良の儒式墓 故従五位下伊賀守酒井忠良君墓
9~24歳まで藩主を勤め弟忠恒に家督を譲って隠居、27歳で死去。
過去帳には戒名(雲昇院殿淳容恵憐大居士)が残されています。
この2人は戒名は過去帳に残されてはいるものの墓碑には彫られておらず、官位つき実名が君付で彫られていますから儒式墓で、前橋藩5代藩主忠挙以来儒式墓が続く海龍院に眠りたかったのだろうと思います。
2・3・4・5・7・8・9代藩主の墓は浅草の崇福寺にありました。関東大震災で焼失し、崇福寺は現在葛飾区高砂に移転しています。藩主の墓は移転できたのか、震災時に破壊されてしまったのか調べられていません。
2代忠告 天戒院殿弥山観高大居士
3代忠温 島高院殿放山牛眠宗魯大居士
4代忠哲 天真院殿自休玄性大居士
5代忠寧 智勝院殿却外禅徹大居士
7代忠恒 柳鳳院殿雲崖蓮萼培堂大居士
2.伊勢崎藩家老関家の墓(伊勢崎市同聚院)


伊勢崎藩酒井家の家老関當義・重嶷父子は、天明3年浅間の大爆発による飢饉時に救民に尽力し、また、「朱子学による」文教政策に務めたそうです。

關襄斎平當義之墓 墓碑
朱子学に傾倒した人物でこの墓標ですから儒式墓ですね。平氏の家系だと謳っています。

睡峒關重嶷之墓 墓碑 戒名は関高院廓然睡峒居士
睡峒は号(本名とは別の呼び名)。朱子学を信奉し、藩校学習堂の責任者、後家老。
関家の墓には上掲2基の儒式墓に加え、

關都守平重邑墓
重嶷の息子で、家老。都守(つうす)と仏教用語が入っていますが、戒名ではありません。

關志津磨之墓
人物については不詳ですが、重邑の墓の隣にありましたから、その息子で家老(世襲ですから)だった人物かも知れません。
伊勢崎藩家老関家の墓は現在まで続いていますが、この4基以外は仏式墓になっています。
当然のことながら、仏式墓を営む伊勢崎藩士もいます。
考 察
儒式墓の混じる大名墓地は次の①②③の型に分けられます。
① 水戸徳川家のようにずっと儒式墓の場合は、大塚先儒墓所や林氏墓所のように、寺とは別の所に墓地を設けます。
② 儒式・仏式が混じる時は、儒式の場合は寺以外に、仏式の場合は寺に墓を設けました。岡山藩池田家、徳島藩蜂須賀家、岡藩中川家、土佐藩山内家などです。
③ 前橋藩主(後姫路藩主)酒井家は仏式墓(1~3代)から儒式墓(4~15代)に変わりながらも同一寺院内墓所(前橋の龍海院)で歴代墓を営んでいます。
伊勢崎藩主酒井家は儒式・仏式が混じる②型に属し、儒式の場合は前橋藩酒井家と同一の龍海院、仏式の場合は江戸藩邸がある東京の崇福寺(東京)に墓地を設けました。そして国家老関家は寺院内で儒式墓を営みました。初代・6代藩主の儒式墓が伊勢崎藩内ではなく、龍海院にあるのは、長幼の序・忠孝を重んじる儒学の影響であると思われます。
なお、GoogleAIでは「伊勢崎藩酒井家は江戸定府だから浅草崇福寺が菩提寺」と出てくるかもしれません(2026年7月23日AI検索)が、通常の大名と同じように参勤交代を行っています(参考②)。この場合、伊勢崎と浅草に菩提寺を構えるのが通常ですが、伊勢崎ではなく前橋龍海院に初代・6代の墓が営まれているのが非常に特長的で、儒学の影響抜きには考えられないと思われます。
参 考
① 伊勢崎市史通史編2(近世)、1993年。
② 竹内励:「伊勢崎藩酒井家の参勤交代」、群馬学研究2号、2024年。

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