概 要
源義家の末裔で足利庄を本拠にした足利氏は源頼朝挙兵の際いち早く与し以後鎌倉幕府内で、源家の一門的地位を得ました。また、執権北条家と姻戚関係を築き北条家に次ぐ権力を持っていました。2代当主足利義兼は北条時政の娘を妻とし源頼朝と義兄弟の関係にありました。以後足利家は北条家と姻戚関係を継続し、足利庄に本拠を置きながら、鎌倉で政務にあたりました。
足利尊氏の代に鎌倉幕府に反旗を翻し、室町幕府を開きます。足利庄には守護代(足利長尾氏)を置き、足利宗家は京都に、尊氏4男を祖とする鎌倉公方家は鎌倉に移りますが、足利庄は幕府と公方の保護を受けました。
この石塔群は足利家の廟所である樺崎寺(廃寺)で足利長尾氏により守り続けられてきましたが、明治になって光得寺に移転されました。
足利尊氏、尊氏父貞氏、室町幕府初代執事高師直、尊氏側近南宗継の供養塔などがあります。

復元中の樺崎寺浄土庭園
足利庄時代の足利家は奥州合戦で見た毛通寺の浄土庭園を奥州合戦の戦勝祈願のために建立した樺崎寺に再現し、足利家と家臣の廟所を池の畔に造営します。
明治初年の神仏分離令により樺崎寺は廃寺となりました。その時、廟所の五輪塔群は光得寺に移転されました。
足利氏歴代の供養塔(市指定文化財)


覆い屋と解説文


五輪塔群
樺崎寺では南北1列に並んでいた五輪塔を覆い屋内に2列に並べてあります。この覆い屋の中では後方に足利家のものと思われる大きな五輪塔があり、前方には家臣の高家、南家の五輪塔が並んでいます。いくつかの五輪塔は組み合わせが不自然のものがありますが、移転前の状態を尊重してその状態にしてあるそうです。
19基中5基は銘文があります。それを南から順に掲載します。


康永二年五月廿四日(1343年)の「永」は読み取れました。


右側は月海圓公大碑と読めます。左側には應安四辛亥年三月廿六日(1371年)と刻まれているのだろうと思います。月海圓公は高氏一族の南宗継の法名です。宗継が開基の足利清源寺にも五輪塔があります。


常明寺殿の「寺殿」と読めない事はありません。足利尊氏・直義兄弟の父親足利貞氏(1273~1331年)の法名。墓所は鎌倉市浄明寺。


長〇寺殿と刻まれているようですが、読み取れません。長寿寺殿であれば足利尊氏(1305~1358年)の法名です。尊氏の墓は京都等持院と鎌倉長寿寺(遺髪)にあります。


前武州太守道常大禅定門 観応二辛卯年二月廿六日と彫られているようですが、読み取れません。道常大禅定門は高師直(生年不詳~1351年)の法名です。室町幕府執事として尊氏を補佐しましたが、直義と対立し、観応の擾乱で敗北し殺害されました。伊丹市池尻に師直塚(慰霊碑)があります。
この五輪塔は地輪・水輪・火輪・宝珠(風輪・空輪)すべて異なる石質材が使われています。
考 察
樺崎寺は2代足利義兼(1154~1199年)が開き、念仏三昧の日々を送り、生入定(いきにゅうじょう)したと伝えられています。
足利家歴代当主の墓所は以下の通りです。
3代義氏(1189~1255年)は法楽寺に隠居し、墓もそこにあります。
4代泰氏(1216~1270年)は智光寺(現平石八幡宮)に墓があると思われますが不詳です。
5代頼氏(1240~1262年)吉祥寺
6代家時(1260~1284年)鎌倉報国寺
7代貞氏(1273~1331年)鎌倉浄明寺:光得寺にも五輪塔
8代尊氏(1305~1358年)京都等持院:光得寺にも五輪塔
樺崎寺にあった五輪塔は銘文のある5基から推測すると、19基ほとんどが室町幕府成立後に造立され、初代尊氏以下将軍の墓は京都をはじめ別の地にあります。鎌倉府が支配していた足利庄ですが、幕府より代官が派遣されるようになると幕府と鎌倉府との間で争いがおこり不安定な状態に置かれました。最終的には関東管領山内上杉家が管理することになり、8代将軍足利義政から長尾景人(山内上杉氏家臣)が足利荘代官に任命(1466年)されています。将軍家の権威で足利長尾氏に命じて、足利将軍家と重臣たちの供養塔を2代当主が眠る樺崎寺に造営したものと推測しました。

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