足利長尾氏墓所(心通院):栃木県足利市

栃木県

長尾氏概略
 足利長尾氏は白井長尾氏・総社長尾氏と同じく鎌倉長尾氏から分れました。1465年8代将軍足利義政から長尾景人(山内上杉氏家臣)が足利荘の代官に任命され、1466年足利荘に入りました。ここから足利長尾氏が始まります。
 景人が岩井山城(勧農城)に入った当時は、山内上杉氏(※1)・扇谷上杉氏(※2)・幕府と古河公方(※3)が対立した享徳の乱の最中でした。景人は山内上杉氏の家臣であることから、山内上杉氏が足利に拠点を築いたことになります。
 3代景長の時に、足利城を本城としました。
 5代政長の時には、足利城・館林城の城主になりました。
 豊臣秀吉による小田原征伐では北条氏に従って迎え、1590年6代顕長は城地を没収されて足利長尾氏は滅びました。

足利長尾氏墓所
 足利長尾氏5代政長が両親の菩提を弔うために1566年(永禄9年)心通院を建立しました。心通院境内南西の丘上に安山岩製の宝筐印塔3基が東向きに並んでいます。
 長尾憲長夫婦(政長父母)と政長夫婦の墓所があったそうですが、憲長妻の墓は既に無く現存は3基で、左から長政夫人(1578年、天正6年)、憲長(1550年、天文19年)、政長(1569年、永禄12年)の順に並んでいます。

長尾政長夫人  繁興理栄大姉
 3基の内向かって左側。塔身は欠失しています。風化して文字が読み取れません。

長尾憲長  嶺叟禅東庵主
 中央。

長尾政長  心通禅空居士
 右側。文字が大分風化しています。

考 察
 足利長尾氏絶頂期の当主長尾政長が父母の菩提を弔うために建てた心通院ですから、父憲長の戒名が嶺叟禅東庵主なのは理解できますが、心通院開基は政長ですから、長政の戒名にも「庵主」を入れても良さそうに思いますし、「心通」は入っているものの心通禅空居士であるのはあっさりした戒名だなと思いました。
 もっとも、1561年に亡くなった長野業政の戒名が一清長純居士でしたから、1569年に亡くなった長尾政長の戒名も6字居士が妥当で、当時北関東では「院・院殿」「大居士」などはまだ流行する前だったのかも知れません。
 
※1 山内上杉家・・・室町幕府は東国統治のため鎌倉府に、足利尊氏4男基氏から始まる鎌倉公方足利家、公方家を補佐・監視するために関東管領を置きました。山内上杉家は関東管領を世襲しました。
※2 扇谷上杉家・・・関東管領を勤められる家柄ではありましたが、徐々に関東管領は山内上杉家に独占され、両家は時に同盟し時に敵対関係になりました。
※3 古河公方・・・第5代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺した事が原因で、室町幕府(8代将軍)・山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方足利成氏と争った享徳の乱(28年間継続)が始まると、1455年(享徳4年)足利成氏は鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となりました。古河公方も5代130年間続きました。

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