山上多重塔(石造三重塔 国重文):群馬県桐生市

平安時代まで

 国指定重要文化財(旧国宝)。
 「鳴くよウグイス平安京」の語呂で平安京遷都の年(794年)を覚えておられる方も少なくないと思います。山上多重石塔は平安時代初期、801年(延暦20年)に建てられた三重石塔(多重塔)です。石造多層塔としては奈良県明日香村龍福寺の竜福寺層塔(竹野王多重塔:751年・天日正宝3年)に次ぎ古いものです。
 伝教大師最澄が一乗止観院(現在の根本中道)を建てたのが788年、延暦寺という寺号になったのが823年です。丁度その頃の多重塔です。

 現在は劣化防止のため、透明のポリカーボネートが貼られた建屋に収められています。
 礎石・3層の塔身・屋蓋・相輪からなり、塔身は一石から彫り出されています。塔身部は一面に朱が塗られていたことが分かります。

 相輪は墨で着色された相輪は地震等による落下防止のため外され、脇に置かれています。
 高さ185cm、下層は幅48cm。黒っぽい礎石・朱に塗られた塔身・黒っぽい屋蓋・墨で塗られた相輪という構成になります。

 解説板にはありませんでしたが、基壇(塔身最下部)も黒く着色されているように思えます。

 塔身の上層→中層→下層の順で右回りに45文字彫られています(写真は中層の「小師道」)。

  如法経坐 奉為朝庭 神祇父母 衆生含霊
  小師道 輪延暦 廿年七 月十七日
  為愈无間 受苦衆生 永得安楽 令登彼岸


 朝廷、父母、民衆、命あるすべての人の為に奉ります。無間地獄の苦しみを受ける民衆の心を癒し、長く安楽を得て彼岸に登ってもらうため、お恐れながら(※)道輪が延暦20年7月17日に法華経の写しをこの塔に奉納します。
※ 小師を小生・小社のようなへりくだった表現と解釈し、このように訳しました。

上層の白い部分に写経典を納めたという事でしょう。

考 察
 山上三重塔は赤城山の南麓、小字相ヶ窪にあり、周囲はごまんどう、しゃかんどうという小字です。僧ヶ窪、護摩堂、釈迦堂といった言葉を連想させ、遺構は発見されていませんが当時一帯に大寺院が広がっていたことが想像されます。
 如法経について、WEB版新纂浄土宗大辞典には「主として『法華経』であるが、「浄土三部経」も多い。経典書写による功徳を願ったり、末法による法滅を恐れて、弥勒菩薩の下生まで経典を伝えるために行われた。天長年間(八二四─八三四)に天台宗の円仁が、比叡山に『法華経』を安置したのが起源とされる。」とありますが、それより20~30年早い801年に道輪はそれを行っていたことになります。
 また、蝦夷の大和国への組み込み対策の途上であり、796年(延暦15年)には上野国など8か国から9000人が陸奥国の伊治城(これはりじょう)に移されました。また征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂が蝦夷遠征(801年3月)平安京を出生し同年12月に帰京しました。その40000万の遠征軍の中には中継地点である上野から徴発された兵士も多数含まれ、また、多量の兵糧も徴発されたはずです。これらの兵士・家族の苦しみが癒される事も願っていた事でしょう。
 この地の寺院の代表だったであろう道輪の視点は餓え・疫病・悪い治安・徴兵などの無間地獄に苦しむ民衆救済にあったことが分かります。 

追 補
 三重石塔のすぐ脇に、不思議な石造物があります。山上多重塔発掘時に並んでいた石塔の残欠だそうです(参考②)。

 右の塔芯が斜めに欠けて笠が落ちかけているように見える石造物の塔身と笠の間を覗くと、塔身が容器のようになり蓋のような石(黄色矢印)が見えます。もしかして、この石造物も何かを奉納したのかも知れません。

参 考
① 前沢和之:古代東国の石碑P65~76、山川出版社、2008年。
② 千々和実:上野国山上多重石塔の研究P4~5、新里史蹟保存会、1934年。
※ ②は国会図書館デジタルコレクション。


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