概 要
大名家の墓所は以下のようなバラエティがあります。
① 江戸時を通して移封されず、同一藩主家の墓が建てられ続ける(会津若松藩主松平家など)。
② 国元で亡くなった藩主は国元菩提寺、江戸で亡くなった藩主は江戸菩提寺に作る(彦根藩主井伊家など)。
③ 移封と共に移る(館林藩主榊原家、米沢藩主上杉家など)。
④ 藩祖が治めた地に作り続ける(前橋・姫路藩主酒井家、唐津・浜松藩主水野家など)。
⑤ 仏教か儒教かで墓地を分ける(岡山藩池田家、伊勢崎藩酒井家など)。
彦根藩主井伊家の墓は国元の清凉寺・永源寺と江戸菩提寺である豪徳寺(2代直孝、14代直弼他)に営まれ、すべて国史跡に指定されています。
本稿では時代が下るに従い、正妻の墓は豪徳寺の割合が増している事を指摘し、その訳を正妻は江戸定府である事、大名家は夫婦別姓で夫婦観が現在とは異なるのではないかと推測しました。
井伊直孝
徳川四天王井伊直政と側室阿古(松平康親家臣印具道重の娘:養賢院)の間に生まれた次男。正室花(松平康親娘・家康養女:唐梅院)との間に同年齢の長男直勝が居ます。共に1690年生まれ。
関ケ原後の戦後処理に奔走した井伊直政は、1602年(慶長7)関ケ原の島津の退き口で受けた鉄砲傷が原因で、佐和山城で亡くなりました。その時、12歳の直勝が家督相続し1615年(元和元)年までの13年間2代藩主として彦根城の築城にあたります。
直孝は1603(慶長8)年に家康に対面、1605(慶長10)年には秀忠に警備責任者として仕え、上野国碓氷郡福島(現在の安中市松井田町)に1万石を与えられています。
大阪冬の陣(1614・慶長19年)では、直勝は表向きは健康上の問題を理由に参陣できず、安中の関所警備にあたりました。代わって参陣した直孝は抜群の功をあげました。1615(慶長20)年幕府より父親の封を受ける事を命じられ、15万石彦根3代藩主となります。夏の陣では5万石加増され、その後30万石まで加増されています。
1632(寛永9)年秀忠の遺命により幕政参与に任命され重要案件の評議に参加するようになると、江戸詰めの時間が多くなり、1634(寛永11)年以降は国元に帰らず江戸で暮らし、1659(万治2)年70歳で亡くなりました。
直勝は3万国安中藩主として分家した形になりました。
直孝・直勝の仲
同い年ですが、直勝は正妻花の子、直孝は花の侍女阿古の子で、幼少期を安中の北野寺で大きな影響を受けたようです。
分家時には直勝の遺品のほとんどと譜代の侍100騎(正確には89人)をつけ、直勝入城後も直勝が安中に移るまで家臣の館で過ごすなど、気遣いを見せています。草津湯治の際は安中城に面会に行ったり、北野寺住職に天満宮北野神社(彦根)を企画させています。また、藩主後退の命令を一度は辞退しているとも伝わっています。
直勝系井伊家は安中藩(直勝)・西尾藩(直好)・掛川藩(直武→直朝)・与板藩(直矩→5代挟んで→直暉→2代挟んで→直保)と続いて明治を迎えますが、直朝は彦根藩主兼大老直興の娘を正室とし、直朝廃嫡後義兄直矩を養子に迎えています。直暉の父は彦根藩からの養子で藩主になる前に亡くなった直広。直保は彦根藩主兼大老直弼の3男です。
直孝と豪徳寺
【寛永10年(1633年)に、世田谷が彦根藩の所領地となり、文明12年(1480年)に建立されていた「弘徳院」を、彦根藩主井伊家は江戸菩提寺と定めました。その後、万治2年(1659年)2代藩主井伊直孝の法号「久昌院殿豪徳天英大居士」に因み、豪徳寺と改称され、大名家墓所に相応しい伽藍を整え現在に至ります。】【鷹狩り帰りの殿様が、お寺の門前にいた猫に手招きされ、立ち寄ることに。寺で過ごしていると、突然雷が鳴り雨が降りはじめました。雷雨を避けられた上に、和尚との話も楽しめた殿様は、その幸運にいたく感動したそうです。それが彦根藩主の井伊直孝でした。】(参考②)

豪徳寺井伊家墓所

久昌院殿正四位上前羽林中郎将豪徳大英大居士
両開き石扉は破損しています。

豪徳寺墓所には、井伊直孝はじめ以下の藩主・正室の墓、並びに子供たちの墓があります。いずれも墓塔の形式は唐破風笠付位牌型です。

(参考③)
| 3代藩主 直孝(久昌院) | |
| 6代藩主 直恒(円成院) | 6代直恒正室 本光院 |
| 8代直惟正室 蓮光院 | |
| 10代藩主 直禔(見性院) | 10代直禔継室 清蓮院 |
| 11代藩主 直幸(大魏院) | 11代直幸正室 梅暁院 |
| 12代直中正室 観光院 | |
| 13代直亮正室 龍華院 | |
| 14代藩主 直弼(宗観院) | 14代直弼正室 貞鏡院 |
| 15代藩主 直憲(忠正院) | 15代直憲正室 春照院 |
| 15代直憲継室 覚正院 |
なお、初代直政・4代直澄・6代直通・7代直惟・8代直定・11代直中・12代直亮は彦根清凉寺。5代直興は彦根永源寺。2代直勝(彦根藩主→安中藩主)は嫡男移封地(掛川藩)の可睡斎(袋井市)にあります。
考 察
彦根城の完成を見る前に初代藩主直政が亡くなる(1602年)と清凉寺に葬られました。清凉寺井伊家墓所の始まりです。一方、幕府の中枢を担っていた3代直孝は、1634年から亡くなるまで(1659年)長く江戸定府で、豪徳寺に葬られました。以後、井伊家は国元で亡くなると清凉寺、江戸で亡くなると豪徳寺という墓所経営を行うようになりました。ただ、直孝の生母(直政側室)養賢院の菩提寺(位牌所)円常寺は彦根にありますが、墓所は不明です。また、正室阿喜姫の墓所も不明です。
直孝を除外すると、時代が下るにつれて豪徳寺に藩主・正室の墓が増えてくる理由は、参勤交代制度(1635年)が定められ、藩主は江戸・国許を1年毎に、正妻とその子供たち・前藩主の正妻などは江戸定府が決まりとされた影響と考えます。大名の娘として江戸で生まれ育ち、井伊家に嫁いだ後も江戸で暮らし、彦根は話に聞く遠い場所でした。
加えて、井伊直政正室唐梅院(2代藩主直勝生母)は直勝分家後も彦根に残っても丁重に扱われたと思いますが、直勝に従い安中に移りました(関連②)。大名家の婚姻は夫婦別姓(※)で、一夫多妻でしたから、現在の夫婦とは意識が異なり、夫との思い出より実子についていく方が心の安寧が得られたのではないかと推測します。
江戸で生まれ育ち婚姻後も江戸定府であった事、一夫一婦制下とは異なる夫婦観であったろう事、これらが井伊家正室の墓が豪徳寺墓所に多い理由と推測します。
※ 大名家は江戸時代を通じて夫婦別姓で、直孝の正妻は蜂須賀阿喜であって、井伊阿喜ではありません。一方(墓石を立てられる上流)庶民では江戸時代の後半から夫婦同姓の意識が強くなっていきます(関連③)。
参 考
① 安中市誌編纂委員会編:「安中市誌」、P126-145、安中市誌編纂委員会、1964年。
② 豪徳寺HP:招き猫について。2026年7月25日アクセス。
③ 世田谷区立郷土資料館:「豪徳寺:文化財総合調査報告」、世田谷区教育委員会、1987年。
④ 彦根市教育委員会:国指定史跡清涼寺「彦根藩主井伊家墓所」調査報告書、2009年。2026年7月26日アクセス。
※ ①③は国会図書館デジタルアーカイブ。
関 連
① 井伊直弼の墓・正妻貞鏡院の墓・桜田殉難八士二七回忌碑(豪徳寺):東京都世田谷区
② 井伊直政正室の墓(大泉寺):群馬県安中市
③ 江戸時代の夫婦別姓に対する意識の変化:墓標から

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