井伊直弼の墓・正妻貞鏡院の墓・桜田殉難八士二七回忌碑(豪徳寺):東京都世田谷区

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概 要
 14代彦根藩主井伊直中の14男として誕生した直弼は、本来ならあり得ない状況の中32歳で16代藩主に就任します。藩政を改革し、幕府内では大老を任され、14代江戸幕府将軍擁立(家茂・慶喜)と開国・攘夷対立の難問に精力を注ぎました。
 直弼の強力なリーダーシップのもと、14代将軍は家茂、アメリカと日米和親条約・日米修好通商条約を結びましたが、徳川斉昭水戸藩主ら慶喜派・攘夷派との対立は消えず、朝廷をも巻き込む明治維新への流れにつながります。
 そんな激動の時代、水戸藩や薩摩藩の脱藩者が引き起こした桜田門外の変により、直弼は44年の人生を閉じました。
 井伊家の江戸菩提寺である豪徳寺にある、直弼の墓・正妻貞鏡院の墓・殉難八士の二十七回忌供養塔を取り上げます。

直弼年表
1815(文化12)年 13代彦根藩主・井伊直中の14男として彦根城で誕生。
1831(天保 2)年 「埋木舎」に移り住み、およそ15年間に及ぶ不遇の生活を送る。
1846(弘化 3)年 兄の死により彦根藩の世子となり、江戸へ移る。
1850(嘉永 3)年 15代直亮(長兄)の死去に伴い、彦根藩第16代藩主に就任。
1851(嘉永 4)年 藩主・藩士・領民の一和を説いて藩士には積極的な意見の上申を奨励。
1853(嘉永 6)年 ペリー艦隊浦賀来航。直弼は「開国・通商」を主張する。
1854(嘉永 7)年 副将軍格徳川斉昭らの攘夷論を排し、日米和親条約締結。下田・函館開港。日英和親条約締結。
1858(安政 5)年 大老。朝廷の勅許を得ぬまま「日米修好通商条約」に調印。将軍継嗣問題では紀州藩の徳川家茂を擁立。安政の大獄。日露和親条約締結。
1860(安政 7)年 帰国するポーハタン号に米国の産業視察のため日本使節団(小栗上野介忠順ら)を派遣する。旧暦3月3日江戸城桜田門外で暗殺される(桜田門外の変)。享年45。

 産業革命により原料供給地・製品販地を必要とした西欧諸国はアジア各国を植民地化していきました。それは清も例外ではなく、以下のような経過をたどりました。
アヘン戦争(1840~42年)
 紅茶や絹の大量輸入に対し売るものが無いイギリスは清と膨大な貿易赤字解消のため、アヘンに目を付けます。植民地インドで生産されたアヘンを清に密輸した結果、清はアヘン中毒者が激増し、風紀が乱れ、銀の大量流出により国家財政が危機に陥りました。清はアヘンを強制没収・処分する措置を取りますが、これに反発したイギリス商人の訴えを受け、イギリス議会は軍隊の派遣を決定し、アヘン戦争が始まりました。
 その結果、南京条約が結ばれ、清は香港の割譲、上海など5港の開港、巨額の賠償金支払い義務を負いました。
太平天国の乱(1851〜64年)
 南京条約による巨額賠償金を支払うため重税を課された農民の不難を背景に、洪秀全が清打倒を掲げて挙兵し「太平天国」を建国し、清の領土の半分ほどを支配下に置く大反乱が起きました。
アロー号事件(1856年)
 広東港に停泊していたイギリス船アロー号に、清の役人が乗り込み海賊容疑で中国人乗組員を逮捕した際、イギリス国旗が引き裂かれたと主張し清に激しく抗議。イギリスはこの事件を口実とし、宣教師殺害事件を口実にしたフランスを誘って、清への共同出兵に踏み切りました。
 太平天国の乱鎮圧も含め、清は西欧諸国の半植民地状態になり、アヘン完全合法化へと進みました。

開国・攘夷派の対立、14代将軍問題
 こうした国際情勢の中、老中堀田徳川斉昭・長州藩主毛利敬親(吉田松陰・木戸孝允らの意見に押され)などの攘夷派と大老井伊直弼らの開国派が対立します。
 徳川斉昭らの精神論的攘夷論に対し、西欧諸国の軍事力とアジア・清の惨状に加えペリー艦隊の威容を目の当たりにした直弼は、西欧諸国に植民地化されないためには開国して近代的軍事力をつけるべきと考え、ペリー艦隊帰国時にはポーハタン号に小栗忠順ら日本使節団を乗船させて、アメリカ(さらにはヨーロッパ)を視察させています。
 ハリスと結んだ日米修好通商条約でこの対立は決定的となりました。この対立に加え、実子なき13代家定の後継問題で、一橋慶喜(徳川斉昭3男)・13代紀州藩主徳川家茂のいずれを支持するのか? 徳川斉昭らに加え島津斉彬(開国派、家定正室篤姫の養親)も慶喜、家茂の血筋を重視すべきと考える直弼らの将軍後継問題も加え政局は混迷を深めてゆきます。
 その後攘夷派も薩英戦争・馬関戦争などで攘夷は現実的ではないことを理解してゆきました。

桜田門外の変(1860年)
 勅許を得ない日米修好通商条約の調印や将軍継嗣問題に反対した水戸藩主徳川斉昭は永久蟄居、吉田松陰(長州藩)や橋本左内(越前藩)らは死刑。公家、大名、志士ら100名以上を処罰した安政の大獄(1858年)が桜田門外の変の原因となりました。直弼の判断は水戸藩主徳川斉昭の面目を潰す事になり、特に水戸藩内で不満が抑えきれなくなりなっていました。
 3月3日桃の節句の祝いを言上するため登城する雪の朝。早朝に水戸浪士の企ての報せがあったものの、供回りの武士を増やす、雨具は簡略にまとう、刀の柄袋は外しておくなどの対策は「法により罰する身ゆえ法を守る」として却下し、決められた人数・装束で彦根藩上屋敷から桜田門まで400m程の距離を60余人の行列で向かいました。

井伊直弼の墓

(彦根城博物館の歴代藩主の数え方)

 世田谷区教育委員会解説板は彦根城博物館の藩主の数え方(初代直政、2代直孝・・・13代直弼、14代直憲が最後の藩主)を踏襲しています。
 現在は直政長男で実際に藩主を勤めたのちに廃嫡された直勝を2代にして14代直弼。4代直興が直該(直治)として再登板、直禔の後に直定が再登板を歴代に数え16代直弼とする数え方もあります。本稿では16代直弼と数えています。

宗観院殿正四位上前羽林中郎将柳暁覚翁大居士
向って右面に万延元庚申年、左面に閏三月二十八日
 直弼は大老就任時に不退転の決意をもって宗観院殿柳暁覚翁大居士の戒名をつけています。その戒名に生前の官職を組み合わせたもの。
 直弼が死亡したのは安政7年3月3日ですが、武家諸法度では跡継ぎを定めないまま死亡した場合、領地没収などの処分対象となってしまうので、幕府は「お家取り潰し」を避けるための時間稼ぎとして、負傷による療養中であると偽り、その間に急いで後継ぎ(直憲)を立てる手続きを行ったため、寛延元年3月28日と記しています。

正妻貞鏡院の墓

貞鏡院殿柳室智明大姉
向って右面に明治十八乙酉年、左面に一月二十有五日 逝
 井伊直弼墓の背後にあり、「柳室」と柳暁覚翁大居士の妻である事が戒名に入っています。
 32歳の直弼が部屋住みの身から異母兄の彦根藩主直亮の世子になった時、将軍家との縁談を避けるため、丹波亀山藩主松平信豪次女12歳の多喜(貞鏡院)と縁組しました。婚礼が行われたのは6年後でした。
 武家諸法度が定められて以後、藩主や隠居の正室は江戸常府です。貞鏡院は丹波亀山藩主と正室との間の子ですから、生涯を江戸で過ごした女性でした。

桜田殉難八士二七回忌碑

櫻田殉難八士之碑
背面に、万延元年三月三日櫻田之変死之者八人曰として以下の8人の忠節を顕彰するため27回忌に当たって碑を建てた事が記されています。
・日下部三郎右衛門令立
・河西忠左衛門良敬
・沢村軍六之文
・小河原秀之丞宗親
・越石源次郎満敬
・永田太郎兵衛正備
・加田丸郎太包
・岩崎徳之進重光
 明治十九年三月二十八日 従四位勲三等伯爵井伊直憲

 井伊直憲は直弼の次男で、彦根藩最後の藩主です。

 井伊家の行列60余名の内訳は士分26人、足軽・小物が40人弱でした。士分26人の内、8人死亡の他、主君を守れなかった罪は重いという事で重軽傷を負った5人は2年後切腹、無傷の13人は斬首されました。
 水戸浪士側では3人が死亡、4人が自刃したほか、9人が捕縛され斬首となりました。常盤共有墓地(水戸市)に桜田烈士として12人が埋葬されています。潜伏し生き残った2人、海後磋礒之介は明治になって警察官吏になりました。増子金八は茨城県内に潜伏し、郷里城里町石塚に妻と眠っています。

雑 感
 安政の大獄の影響でかつてはどちらかというとマイナスのイメージのあった井伊直弼ですが、西欧列強に比べ鎖国の影響で軍事力が著しく劣る日本の状況を考えると、士気盛んであっても勝てるはずは無く、外国の要求を取捨選択し日本に不利にならないものは認め国力を涵養すべき時である、という信念で、難しいかじ取りを行い開国に導きました。
 攘夷派も鎖国は現実的でない事を理解し、明治政府の中心となってから文明開化を推し進めた訳ですから、井伊直弼は明治の父といえる人物と思います。
 明治政府は己が正当性を喧伝するため、井伊直弼や小栗忠順らを正当に評価しなかったのだろうとい思います。

参 考
① 彦根城博物館:彦根藩主井伊家。2026年7月17日アクセス。
② 世田谷区立郷土資料館:「豪徳寺:文化財総合調査報告」、世田谷区教育委員会、1987年。
③ 松浦行真:「激流百年:井伊直弼・岩倉具視・伊藤博文」、サンケイ新聞社出版局、1969年。
 ※ ②③は国会図書館デジタルコレクション。

関 連
① 井伊直政正室の墓(大泉寺):群馬県安中市
② 明治の父・真の幕臣 小栗上野介の墓(東善寺):群馬県高崎市



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