~4代忠清の墓から仏式から儒式に変わった~
概 略
前橋藩主酒井家の墓(市指定文化財)は初代~3代は仏式、4代~15代は儒式に変化しています。通常は岡山藩池田家や徳島藩蜂須賀家のように仏式墓は寺院、儒式墓は寺院外に営まれますが、酒井家の場合、龍海院境内に営まれ続けるという多分日本で唯一であろう形態をとっています。酒井家の儒式墓は5代藩主忠挙が大きく関与していると考えられます。
徳川家康が幕府を開いた翌年、家康から「汝に関東の華をつかわす」と言われ、譜代大名の酒井重忠(※1)が川越1万石から3万3千石で移ってきました(大老を勤めた2代忠世12万2500石、3代忠行の時代に15万2500石)。高崎藩の井伊直政、館林藩の榊原康政、厩橋藩(4代忠清の時代に前橋藩と改める)の酒井重忠と信頼のおける重鎮を配置して関東の守りを図ったのです。
9代忠恭の時姫路藩に転封した後も墓所を龍海院に置き続けました。群馬県指定史跡です。
3800㎡の広大な敷地にこんな形に配置されています。

酒井家の墓碑を観察すると、4代忠清を境に仏式から儒式に変化している事が分かります。
墓碑に刻まれた文言を示します。なお、4代以降太字が墓碑に彫られ、(戒名:・・・)は彫られていません。
初代 忠重 墓標:脩賡院殿傑叟源英大居士
2代 忠世 墓標:隆興院殿発向源真大居士前拾遺
3代 忠行 墓標:松巌院殿雪窓玖伯居士
4代 忠清 墓標:故従四品羽林源成君之墓
(戒名:大昌院殿従四品前羽林次将長得源成大居士)
5代 忠挙 墓標:故従四品羽林将酒井雅樂頭忠挙府君之墓
6代 忠相 墓標:従四位下酒井雅樂頭忠相君墓
(戒名:永昌院殿光運源穆大居士)
7代 忠愛 墓標:従四品酒井雅樂頭親愛府君之墓
8代 親本 墓標:故従四品拾遺酒井雅樂頭親本府君之墓
(戒名:台雲院殿明応源光大居士)
以下姫路藩主
9代 忠恭 墓標:故従四品羽林自次将雅樂頭忠恭府君之墓
(戒名:古岳院殿忠峰源碩大居士)
10代 忠以 墓標:故従四位下行雅樂頭兼侍従源朝臣忠以府君之墓
11代 忠道 墓標:故従四位下主計頭源朝臣忠道府君墓
12代 忠実 墓標:故従四位下少将姫路城主源祇徳公之墓
(戒名:祗徳院殿鷺山源桓大居士)
13代 忠学 墓標:故従四位下少将姫路城主源〇光公之墓(〇は読み取れませんでした)
(戒名:謙光院殿済明源亨大居士)
14代 忠宝 墓標:故従四位下侍従姫路城主源絹光公之墓
(戒名:緝光院殿勲山源荘大居士)
15代 忠顕 墓標:故従四位下権少将姫路城主源朝臣魏公之墓
(戒名:顕徳院殿霽山源魏大居士)

初代忠重(右)、正室の仏式墓。

2代忠世の仏式石廟墓。3代も忠行も同形。
4代忠清~15代まで墓標は、「○○之君之墓」と全て儒式です。戒名は解説板には書かれていますが、墓碑にはありません。5、7、10、11、13代は戒名さえありません。
まずは、儒式墓の参考に1例あげます。

古代中国の「喪葬礼」や「家礼」の定めに準拠して、林羅山家8代林述斎の墓碑は「快烈先生林府君墓」と彫られています。述斎は儒学を講じる立場にあるので「先生」と名字「林」が入っています。朱熹の「家礼」に従えば大塚先儒墓所の墓のようにもっと質素になりますが、上級儒者に相応しい墓をと述斎は考えこの規模にしました。とはいえ大名墓に比べると、大分質素です。
儒学に傾倒した大名として水戸徳川家、52万石姫路藩主池田輝政などが有名です。水戸徳川家は寺院内ではなく常陸太田に独自の墓地を、岡山藩主池田家は儒式墓は和意谷池田家墓所(池田輝政は京都の寺院から改葬されました)、仏式墓は曹源寺と分け、徳島藩蜂須賀家は万年山に儒式墓所を、興源寺に仏式墓所を営んでいます。
その点、酒井家は仏教寺院の境内に1~3代までの仏式墓、4~15代の儒式墓を営んでいる点で特異です。

4代 酒井忠清の儒式墓 故従四品羽林源成君之墓
酒井家の墓碑は円頂方柱で、8面体の台石に乗っています。

5代酒井忠挙の儒式墓 故従四品羽林将酒井雅樂頭忠挙府君之墓
中興の祖、忠世の墓のみ灯篭が4基建っています。

伊勢崎藩酒井家の儒式墓 下野守従五位下酒井忠寛君墓
5代忠挙は弟忠寛に2万石を分地し伊勢崎藩として独立させました。忠寛の儒式墓も宗家前橋藩主酒井家歴代墓地の片隅に建っています。また、6代藩主酒井忠良の儒式墓もあります。
伊勢崎藩2・3・4・5・7・8・9代藩主の墓は浅草の崇福寺にありました。関東大震災で焼失し、崇福寺は現在葛飾区高砂に移転しています。
考 察
4代忠清の儒葬は儒学に傾倒していた(※2)忠挙の差配で行われたと考えられます。それ以降戒名がある場合も墓碑には彫られていません。多分過去帳に戒名が記録されているのでしょう。5、7、10、11代は仏教寺院に葬られるにも拘わらず、戒名がありません。
また、忠挙は次男忠寛に2万国分地して伊勢崎藩を立藩させていますが、初代伊勢崎藩主酒井忠寛の墓も儒式墓でした。
以上の事から、酒井家の儒式墓化は5代忠挙がキーマンのようです。
儒学を好んだ池田家と仏教は相容れない価値観があるためでしょう、輝政の墓は京都妙心寺から和意谷池田家墓所(岡山県)に改葬しています。一方酒井家の場合、儒葬の4~15代(特に戒名のない5代忠挙、7代忠愛、10代忠以、11代忠道までも)までも海龍院に葬られているのが興味深い点です。
海龍院は家康の祖父清康によって建てられ、酒井正親以来外護者として川越・前橋と移転してきた経緯や父祖を大切にする儒教精神のためと考えますが、正鵠を得ているでしょうか。
大名儒式墓の特長を考察します。
①水戸徳川家のようにずっと儒式墓の場合は、大塚先儒墓所や林氏墓所のように、寺とは別の所に墓地を設けます。
②儒式・仏式が混じる時は、儒式の場合は寺以外に、仏式の場合は寺に墓を設けました。岡山藩池田家、徳島藩蜂須賀家、岡藩中川家、土佐藩山内家などです。
酒井家の場合、龍海院内墓所に仏式墓・儒式墓が混在し、しかも仏式3基、儒式12基(加えて伊勢崎藩主2基)と儒式墓地の様相を呈している事が他に例を見ない特色と考えられます。
※1 徳川四天王の酒井忠次(左衛門尉家)とは別系統の雅樂頭家と言われる家系です。有力な譜代大名で老中や大老を出しています。
※2 5代藩主酒井忠挙は4代忠清(父:大老)が失脚した影響で江戸城内での活躍はできませんでしたが、藩政に尽力した名君だそうです。厩橋城を前橋城に改めました。酒井氏歴代墓地の中で唯一石灯籠が4本立っています(他は2本)。家臣・藩の民に尊敬されていた証でしょうか。
徳川吉宗時代全国的に藩校が開かれますが、保科正之の儒学(朱子学)に傾倒していた忠挙は1682年藩主に就くと儒教哲学に基づく「法度15条の戒め」を藩内に公布し、全国6番目の早さで好古堂(1691年)を開きました(木本、2019)。
また、忠挙次男伊勢崎藩主酒井忠寛の儒墓もあるように、前橋藩・伊勢崎藩の儒学(朱子学)の普及の祖となりました。
参 考
木本毅:江戸幕藩体制下の教育とその思想ー幕府の学問所、諸藩の藩校、そして、私塾・寺子屋ー。和歌山信愛女子短期大学紀要、60号、2019年。
関 連
伊勢崎藩主酒井家・家老関家の儒式墓:群馬県前橋市・伊勢崎市

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