概 要
高崎藩12万石井伊直政は関ケ原の戦い後彦根藩15万石に移封され、関ヶ原の鉄砲傷がもとで1602年亡くなりました。長男直勝が12歳で2代藩主につきましたが、家臣団をまとめきれず、1615年安中藩3万石に移封され、生母唐梅院(直政正室)を伴いました。1629年安中城内で亡くなった唐梅院は安中藩井伊家菩提寺大泉寺に葬られました。
大泉寺には唐梅院と隆崇院(直勝側室:正妻は離縁)の五輪塔が立っています(市文化財)。
藩井伊家略年表
1602年 直政死去
1602年 直継(直勝)2代彦根藩主(※)
1603年 彦根城築城開始
1615年 直孝3代彦根藩主
直勝3万石初代安中藩主(この時直継から直勝に改名)
1618年 隆崇院(直勝側室・直好生母)直好を出産
1629年 唐梅院(直政正室・直勝生母)安中城にて死去
1632年 直勝隠居、長男直好2代安中藩主
1644年 隆崇院安中城にて死去
1645年 直好三河3万5千石西尾藩主
1659年 直好遠江3万5千石掛川藩主
1662年 直勝死去
直政死去後12歳で2代藩主になった直継(直勝)は彦根城築城を始めますが、幼少だったこともあり井伊家家臣団の対立を押さえる事ができず、徳川家の目付が差配する事になります。大坂の陣(1614年)では直勝は碓氷の関所警護を命じられ、1万石白井藩主(渋川市)次男直孝が井伊軍を率いて目覚ましい功績を挙げました。
幕府の命令により彦根藩18万石は彦根領15万石(夏の陣後30万石に加増)を直孝が継ぎ3代藩主となり、直勝は安中領3万石を継ぎ初代安中藩主となりました(※1)。その時、井伊谷以来の家臣団は安中藩へ、旧武田家遺臣を中心とする主力部隊(赤備え)は彦根藩に振り分けられました。
安中藩主就任時に直継から直勝に改め、安中城再建、町割り策定、検地も行って、安中藩の整備に務めました。また、幕命により、碓氷(安中市松井田町)・杢が橋(渋川市南牧)・西牧(下仁田町本宿)・大戸(東吾妻町大戸)関所の管理を行いました(参考①)。
※1 江戸時代彦根藩(井伊家武鑑)では直勝を藩主として認めず、直孝を2代藩主としていましたが、現在では直勝を2代藩主としています(参考②)。

唐梅院(直政正室・直勝生母)の墓
唐梅院殿台誉崇玉大姉(参考③)
唐梅院は松平康親の娘で、名は花。直政死去に伴い出家して唐梅院と号し、幼い直勝を支えました。 直勝と共に安中藩に移り、1629年に没し大泉寺に葬られました。
藩主や隠居の正室が江戸常府となったのは武家諸法度が定められた1635年以降です。

隆崇院(直勝側室・直好生母)の墓
隆崇院殿念誉寿専大姉(参考③)
直勝は正妻(鳥居忠政の娘)を離縁して、岩(側室:中島新左衛門の娘)との間に2代藩主直好を設けました。1644年に亡くなると、唐梅院の五輪塔から20m程離れた所に隆崇院の五輪塔を造立しました。2塔の間・周囲は後年建てられたと思われる墓石が林立しています。
基台2段の唐梅院五輪塔の方が基台1段の隆崇院五輪塔よりやや高くなっています。
雑 感
唐梅院は実子直勝と安中に来た訳ですが、以下のような葛藤を抱えた人生だったと思われます。
① 直政墓と離れる事
② 立場が逆転した事・・・井伊直政に嫁ぐときに侍女を随伴しましたが、唐梅院の直勝出産のひと月遅れでその侍女が側室となり直孝を出産した事。そして直勝が直孝に藩主の座を譲らざるを得なかった事。
③ 唐梅院の生きた当時直勝は徳川家臣団一の家格を誇る彦根藩井伊家当主を13年間も勤めたにもかかわらず、「2代藩主井伊直勝」は認められず、2代藩主井伊直孝となっている事。
唐梅院・養賢院、直勝・直孝の実際の仲を知る由もありませんが、正勝安中移封にあたって直孝は兄を差し置いてと彦根藩主就任を固辞した言説もある様です(資料④)。しかし兄弟仲の如何にかかわらず、正室・侍女、正室の子で長男・侍女の子で次男から、初代安中藩主とその生母・「2代彦根藩主」とその生母という立場逆転には、徳川家の意向とはいえ直勝・唐梅院には大きな葛藤があったでことしょう。
しかし直勝の安中藩での統治は手堅く、家臣間の対立も解消され、唐梅院は安寧を得た中で息を引き取ったことと推測します。
参 考
① 山田武麿編:上州の諸藩(上)、P73-75、上毛新聞社、1981年。
② 井伊美術館HP:井伊家歴代の数え方について。2026年1月8日アクセス。
③ 群馬県 歴史・観光・見所HP:唐梅院と隆崇院:概要。2026年1月8日アクセス。
④ 児玉幸多・北島正元慣習:新編物語藩史第3巻、P121-122、新人物往来社、1976年。
※ ①④は国会図書館デジタルコレクション。


コメント