概 要
関ケ原の戦いで西軍に与した格好になり改易された丹羽長重の変転の人生と墓を紹介します。長重の高さ4.27mの宝篋印塔は廟と共に白川藩大名墓地(市文化財:円明寺跡)にあります。
また、嫡男光重が父長秀の墓を残して二本松藩に移封された理由を推測します。
丹羽長秀
織田家四天王(明智光秀・柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益)の一人で元々は豊臣秀吉の上司でしたが、山崎の戦い(対明智光秀)・清須会議(柴田勝家の対立)・賤ケ岳の戦い(対柴田勝家)で一貫して豊臣秀吉に与し、越前北ノ庄120万石の領主となりました。
丹羽長重
長秀没後越前北ノ庄120万石を三男長重が継ぎますが、家臣の軍令違反が重なって越前小浜1万石、加賀松任3万石と転々とします。しかし、秀吉の信頼は篤かったようで名護屋城本営の守備を任せられて、1595(文禄4)年加賀小松8万石に移っています。
関ヶ原の戦いでは西軍に与したというより前田利長との境界線争いがあって出陣せず、領地没収・江戸に蟄居となります。
実直である人柄に加え築城技術など評価され、加えて信長の五女を正室とする長重は秀忠・利長とは親戚関係(正室が信長長女・四女)でもあってか、秀忠の斡旋により家康より1603(慶長8)年常陸古渡1万石の立藩を命じられます。1617(慶長12)年より秀忠の御伽衆に抜擢。冬夏大坂の陣の貢献により1万石加増(1619・元和5年)。元和8年棚倉藩5万国に移封。
会津藩主蒲生忠郷(氏郷孫)の後を加藤義明と分ける形で白河藩10万石(11万700石とも)藩主となりました。関が原で改易された大名が10万石大名に復活したのは、立花宗茂と丹羽長重だけです。
1627(寛永4)年初代丹羽長秀は大隣寺に葬られました(※2)。現在は白川藩大名墓地(円明寺跡)と呼ばれています。
1637(寛永14)年没江戸屋敷で67歳で没し、円明寺跡に開かれた大隣寺に埋葬されました。
辞世の歌 千とせまでながれはつきじ白河の花やと見えし堀のさざ波。
戒名は大隣寺殿前参議三品傑俊浄英大居士(※)。
※ 大隣寺HPでは、越前総光寺より僧を招いて開山したため戒名を総光寺殿大隣宗徳大居士としています。
丹羽長重の墓



廟は1836(天保7)年に建てられました。


丹羽光重
白河藩は同年三男光重が継ぎましたが 1643(寛永20)年隣接の10万700石二本松藩に移封されました。なお、二本松移封時に大隣寺も移転されました。
丹羽家が白川藩・二本松藩に処されたのは、伊達家、佐竹家の抑えのためでした。
考 察
なぜ丹羽家は長重の墓を白河に置いて、異動したのか考察します。
大名家の墓には以下のような墓地があります。
① 転封後も家祖の地に墓を営み続ける場合(姫路藩主となって以降も前橋海龍院に営み続けた酒井家、結城山川に営み続けた水野家など)
② 転封後の領地に営む場合(春日山の謙信の墓を米沢に移転した上杉家など)
③ 転封前の地に残して転封する場合
丹羽家の場合③に該当します。
以下資料①の事実を基に、推測します。
長重は棚倉城を整備した直後白川藩に移封されました。白川藩主となった長成は伊達・佐竹の抑えを幕府に要請され、3年の歳月と多額の費用をかけて難攻不落の城・城下町を整備しなければなりませんでした。
繰り返し長重の異動を見て来た2代藩主光重にとって、また自身も会津藩に移封されるはず(加藤成明の所領返上を受けて、幕命により3800名もの兵を動かし会津若松城の受け取りまで済ませています)が、急転二本松藩への移封という結果を見て、この先丹羽家の領地・財政が不透明過ぎ長重の墓まで二本松藩に移す事は費用的にきつかったのかも知れません。
移封後も折に応じて供養してきたはずですが、幕藩体制が安定し移封や無嗣断絶などが少なくなって、丹羽家は二本松の地で続いていくと実感した時、丹羽長重の墓に廟を設けて篤く供養したいと考えたのだろうと推測します。
補足:白河藩大名墓所
白川藩主は交代が目まぐるしく、次のようになっています。
丹羽長重→光重→榊原忠次→本多忠義→忠平→松平(奥平)忠弘(廃嫡清照)→松平(結城)直矩→基知→義知→松平(久松)定賢→定邦→定信→貞永→阿部家(8代)
大名墓所には丹羽長重、松平清照、松平直矩、松平基知の墓があります。





参 考
① 白河市史編さん委員会:白河市史(中)、P17-26、1971年。
② 大隣寺HP:2025年12月12日アクセス。


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