死穢を嫌う神道は葬送に関与せず、本来は三法(仏法僧※)を信仰する仏教も、祖先供養とは本来関係の無いものです。
ですが、仏教は平安時代頃から葬送にかかわり出すようになり、鎌倉時代には時宗僧を中心にほぼすべての宗派がかかわるようになりました。困窮・疫病・戦乱に苦しむ人々は先祖供養をする事(良い功徳を積むこと)により、来世は先祖の下で心の安寧を得ようと仏教にすがり、宗派により浄土の違いはあれ、例えば「南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土行ける」と布教し、鎌倉室町時代仏教は隆盛を極めました。
神仏習合の時代、神道は正月祭・神嘗祭・初宮参・七五三・新嘗祭など吉祭を、仏教は葬送という役割分担ができたのでした。離壇運動が活発になる江戸時代末期に神職の一部が例外的に神葬祭を行うようになりますが、神仏分離令以前は神官も仏葬でした。
しかし、石造物を見学していると、神社境内に仏塔(墓石・供養塔・石仏など)が存在している事があります。
神仏習合時代でも、明確な役割分担はできていたのであり、これは神仏習合時代の名残ではありません。
そこで、「神社に仏塔」シリーズで神社境内に仏塔が残っている訳を調べ、以下の場合が考えられると筆者は仮説を立てています。
① 神格化された個人の墓が祀られている
② 神仏習合時代、別当寺にあったものが神社境内に残った
③ 土地整備などで神社境内に移転された
④ 神社の移転先の土地に既に仏塔があった
⑤ 例外(境内に仏塔として建てられたと考えられる石塔)
そして、現在の神社はABいずれかの対応を取っています。
A:しめ縄を巡らす等の神道儀礼をおこなう
B:神道石造物と区別し神道儀礼をおこなわない
以下、具体例を挙げます。
① 神格化された個人の墓が祀られている
徳川家康の東照宮、保科正之の土津神社、豊臣秀吉の豊国神社、菅原道真の太宰府天満宮などが該当します。家康・秀吉は神仏習合とはいえ神格化されています。正之は神儒葬として埋葬されました。菅原道真は元々寺院に葬られたました。
したがって、この4人の墓は本稿の主題である「神社に仏塔」ではありませんが、それでも死穢を嫌う神社には墓は無いはずです。
その苦心の跡が神社本殿・拝殿とは別の所(奥宮)に祭る事だったのだと考えます。

(保科正之の墓:土津神社奥宮)

(保科正之の墓:灯篭2基と表石)

(保科正之の墓:鎮石)
徳川家康は東照大権現という神仏習合の神として本殿から奥まった奥宮に埋葬され、保科正之も土津大神として奥宮に埋葬されています。豊臣秀吉は豊国大明神という神仏習合の神として阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、その麓に豊国神社が建てられました。
順序としてはいずれも奥宮に埋葬した後、別の所に本殿・拝殿を造ったという事になります。
菅原道真は無実の罪を着せられ失脚、大宰府に流され失意のうちに死去。安楽寺に葬られました(参考①)。失意の死後怨霊となった道真の魂を慰撫するため、天満大自在天神の神号が贈られ安楽寺跡に太宰府天満宮の基になる祠が建てられました。現在は怨霊というよりも、学問の神様として崇められるようになっています。
家康・正之・秀吉の墓は神と崇められ、後に神社(本殿・拝殿)を作る前提で奥宮に葬られ、一方、道真は怨霊慰撫を目的に仏葬された墓の上に後に神社(本殿・拝殿)が造られたと考えられます。


なお、田中吉政の墓は墓石の上に仏教寺院が建っており、寺院まで合わせて墓と考えています。墓と本殿・拝殿を分ける神道との対比は興味深い所です。
② 神仏習合時代、別当寺にあったものが神社境内に残った
神社に存在する仏塔のかなりの割合が該当します。
神仏習合の時代別当寺・神宮寺と言われる寺院が神社境内に隣接してあり、別当が神社も支配していました。それが神仏分離令などにより、移転したり廃寺になり、神社境内に仏塔が残ったと考えられるものです。

(六地蔵石殿:国指定重要美術品)
近戸神社(群馬県前橋市)に六地蔵石殿(国指定重要美術品)と宝塔があります。
近戸神社には社家光善寺と宝学院という2つの修験別当寺があり、社家光善寺は近戸神社の真裏手に存在していました。社家光善寺境内にあった六地蔵石殿と宝塔が、近戸神社の境内となり残ったと考えられます。
③ 土地整備などで神社境内に移転された
神社付近で区画整理などがあった場合、存在していた仏塔の移転先として神社が受け入れる事があります。仏塔を文化財と考え、公共の利益の為に引き受けるという事があります。

平安時代末に造られ県内最古の笠薬師塔婆は道路建設の折、丁間稲荷神社に移転されました。
④ 神社の移転先の土地に既に仏塔があった
愛宕神社(伊勢崎市)は、愛宕神社社殿造営記念碑に「大正二年秋、波志江金蔵寺と地交換して現在地大字波志江一五二三番地に遷祀」とあり、宝塔の基礎部には「故宿赤城神社有」(故に赤城神社に宿りて有り:そういう事で赤城神社が所有しています)と彫られています。

金蔵寺境内を分割購入の折、愛宕神社の境内に残った宝塔と考えるのが妥当と思われます。
※ 「故宿赤城神社有」と彫られているのは、愛宕神社は赤城山南麓(前橋市・伊勢崎市)に広がる赤城神社の一社のためです。
⑤ 例外(境内に仏塔として建てられたと考えられる石塔)
これに該当するのは、自験例では下植木赤城神社貞治五年多宝塔(群馬県伊勢崎市)だけです。


原 文
敬白
奉造立殖木宮石塔事
原以宝塔是三世諸佛全躰一
切众生自證覺路也依之多宝
踊現之春朝四衆踏花坐宝塔坐中主之秋夕十界居月宮然則三所明神五衰三熱夢覺令成八相化儀矣 若爾今上皇帝御願円満将軍家御息災延命天下太平萬民豊楽特當当郷地頭家御心中所願成就社内安穏興隆佛法故也 兼又先妣法蓮成等正覺法界众生平等一如
貞治五年丙午仲冬日
(向右面)
思秀
安法
秦 清吉
同 清才
同 貞吉
同 重吉
大工 清原光吉
(向左面)
○阿
平 宗吉
○ ○○
○ ○○
神主 済貞
泰貞
私 訳
謹んで申す。
植木宮に石塔を造立した事。
元来地中から湧き現れた塔から多宝如来が釈迦を讃めたたえ、塔中に招き入れて座らせ、釈迦如来・多宝如来の二仏が並んで座したと言われるのが宝塔で、両如来とも悟りの道を説くのである。そして過去・現在・未来の三世に在すもろもろの仏陀の全体を意味し、仏教を信じる事により生きとし生けるもの極楽への道が開かれ、春は花に包まれ、秋には満月の宮に安住できるのである。また、苦しみの悪夢から衆生救済のためにこの世に仏を遣わすのが植木宮に祭る赤城三所明神である。今上皇帝(後光厳天皇)の円満、将軍家(足利義詮)の息災、天下太平万民豊楽を願うのである。仏法興隆により、特に当郷の地頭家の願いが叶い、植木宮が安泰である事を願う。加えて、亡母法蓮が生死の迷いから悟りの境地に至る事、生きとし生けるものも等しく悟りの境地に導かれんことを。
貞治五年ひのえうま仲冬の日
この多宝塔には「奉造立殖木宮石塔事」、造立者に「神主済貞、泰貞」と彫られており、積極的ではないにしろ、神主了解のもとに神社境内に仏塔が建てられてた事が判ります。「神社に仏塔」シリーズで最も異彩を放つ仏塔です。
ただし純粋な仏塔というより、「今上皇帝(後光厳天皇)の円満、将軍家(足利義詮)の息災、天下太平万民豊楽を願うのである。仏法興隆により、特に当郷の地頭家の願いが叶い、植木宮が安泰である事を願う。加えて、亡母法蓮が生死の迷いから悟りの境地に至る事、生きとし生けるものも等しく悟りの境地に導かれんことを。」と刻んで天皇家・将軍家、この地の地頭家、天下泰平万民豊楽を願うという主願に付け足す形で亡母法蓮の冥福を願う副願が刻まれています。
この宝塔の造立者は天下泰平万民豊楽の主願で神社境内に立てる願塔に相応しい条件をクリアし、紛れ込ませた本当の願いは母親の冥福、という構造を持っています。母親の遺骨はこの宝塔の下に埋納されたのではなく、供養塔として神社境内に造立されたと考えます。
植木宮の大檀那の願いとして、墓ではなく吉事を願う碑という事で、仕方なく境内に造立する事に同意したものと考えます。
A:仏塔に神道儀礼を施す場合
ここまでお読みいただき、神道儀礼が施された仏塔の写真が散見されることにお気づきになられたでしょうか?
上掲④の、移転で隣接寺院から境内の折、神社境内になった所に残ったと考えられる愛宕神社の宝塔は、墓石ですから付近には遺骨が埋まっている可能性があり、金蔵寺に宝塔を移動するだけでは土地を浄化できません。そこで、「基礎部に故宿赤城神社有」と愛宕神社の所有とし、神道儀礼を施していると考えられます。


同様に下植木赤城神社境内には仏塔を納めた古碑殿があります。下植木赤城神社では、古碑殿にしめ縄を張って浄化しているものと考えられます。
B:仏塔には神道儀礼を施さない場合
一方、仏塔には神道儀礼を施しても無意味と考える神官もいます。
二宮赤城神社(群馬県前橋市)にはかつての神宮寺・玉蔵院の梵鐘・宝塔・五輪塔・石仏が残っています。



梵鐘は勿論、宝塔・五輪塔・石仏には神道儀礼は施されておらず、道祖神碑にはしめ縄が張られています。神官に伺ったところ、仏教遺物には無意味だから神道儀礼は行わないとの事でした。
新海三社神社(長野県佐久市)の境内にはかつて上宮本願院神宮密寺(上宮寺)があり、その遺物である木造三重塔(国重文)、石造宝塔が神社境内に残っています。


現在三重塔は仏塔としてではなく三社神社の宝庫として使われており、しめ縄が張られています。一方宝塔は仏塔として残っているだけで、しめ縄を巡らす意味が無いと考えているものと思われます。
※ 仏・・・悟りを開いた人、仏陀。法・・・仏の教え。僧・・・仏の教えに従う人。
まとめ
死穢を嫌う神社に仏塔は存在しません。存在する場合は下記のいずれかに該当します。
① 神格化された個人の墓が祀られている
② 神仏習合時代、別当寺にあったものが神社境内に残った
③ 土地整備などで神社境内に移転された
④ 神社の移転先の土地に既に仏塔があった
⑤ 例外(境内に仏塔として建てられたと考えられる石塔)
①は偉人を神格化した場合ですが、遺骨は奥宮に祭られ、その後少し離れて本殿・拝殿が建てられます。⑤は例外で、仏塔が神社境内に建てられたと考えますが、自験例では下植木赤城神社の貞治五年多宝塔だけです。しかも、天下泰平万民豊楽を願い、付け足す形で母親の冥福の願いが彫られ、神官に納得してもらえるよう仏塔職を限りなく薄めています。
ほとんどの仏塔は②神仏習合時代、別当寺にあったものが神社境内に残ったに該当します。
ここで、問題です。筆者が一番理解しにくかった「神社に仏塔」です。
砥石神社(群馬県沼田市)の仏塔群を見てみます。砥石神社本殿・拝殿の左脇の細道を上っていくと、




奪衣婆や七重塔などの仏塔がかたまっています。七重塔は沼須砥石神社の修復に私財を投じた小林多左衛門の供養塔です。
なぜ、仏塔の前に鳥居があるのか理解できなかったのですが、鳥居の向き(前後)に気づき、すべて理解できました。
仏塔群に鳥居で結界を張っているのではなく、これは下り宮の鳥居だったのです。

石造七重塔や奪衣婆などの仏塔群は別当寺・泉流観音院金蔵寺の敷地内にあって、そこを通って鳥居をくぐり、下って行くと沼須砥石神社にお参りできるという参道だったのです。2本ある参道のうち一本が下り参道だったのです。
したがって、沼須砥石神社の仏塔群は②神仏習合時代、別当寺にあったものが神社境内に残った、に該当します。
参 考
① 九州国立博物館HP:太宰府天満宮(本殿)。2025年8月31日アクセス。

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