江戸時代の庶民の夫婦別姓に関する意識の変化を墓碑から考察してみたいと思います。
なお、本稿では氏と姓は同じとして扱います。
「苗字帯刀」という言葉から江戸時代に農民・町民は苗字はなく、何らかの功績や財力がある場合に名字を名乗れたと思いがちですが、公式の場では名乗れないものの、普段の生活では名字を名乗っていたようです。

左室鳩巣夫妻の墓(大塚先儒墓所)
まず将軍の侍者を勤めた儒者室鳩巣夫妻の墓碑は「室鳩巣先生之墓」(向かって左)、「室鳩巣先生室若森氏之墓」(右)となって、夫婦別姓です。質素ですが上流階級の墓です。
以下例1~7墓はどの階層か確かな証拠がある訳ではありませんが、周囲に普通の墓石ばかり建っている中にありますから、幕府や藩の中枢にかかわる人物ではなく、墓石を建てられる裕福な一般農民・町民(以下、庶民)と思われる墓です(一部武士階級が入っているかも知れませんが)。
例 1
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寺外の再建墓です(墓石の形・材質は当時のものと大幅に違うはずです)。院号つきの居士・大姉戒名ですから、かなり裕福な庶民と思われます。
夫 覚音院妙喜岳仙惠居士 新井京太 1658年(万治元年)
妻 貞安院妙月明昇林大姉 箕浦絹江 1658年(万治元年)
例 2



夫:本譽至道居士 小林太助義株 1816年(文化13年)
妻:真譽宝〇大姉 同人妻 1836年(天保7年)
院はつかない6字居士・大姉の寺内墓です。妻は「同人妻」と氏名を名乗っていません。
例 3
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夫:善慶道入信士 町田○○ 1815年(文化12年)
妻:𠮷妙蓬休信女 同人サイ 1847年(弘化4年)
寺外墓の信士・信女墓です。妻サイさんは「同人サイ」と名字抜きですが実名も彫られています。
例 4



夫 辨譽勇林居士 吉澤平十郎 1826年(文政9年)
妻 靜譽梅香大姉 同人妻 1851年(嘉永4年)
寺内墓で位号は居士・大姉。
例 5



夫 秀壽院道譽瑞山居士 飯塚岩右衛門重春 1849年(嘉永2年) 89歳
妻 寶香院齋譽妙壽大姉 同人妻 1851年(嘉永4年) 62歳
院号つきの居士・大姉の寺内墓です。夫は飯塚岩右衛門重春と名乗っていますから、武士か裕福な商人階級の墓かも知れません。
例 6




夫 鑑譽祐純居士 岡部傳左衛門 1861年(萬延2年) 57歳
妻 光譽輪貞大姉 はま 1830年(文政13年) 21歳
妻 純譽妙祐大姉 岡部かつ 1883年(明治16年) 82歳
居士・大姉の寺内墓。院号はついていませんが、背の高い笠塔婆で経済的に裕福な家を想像させます。岡部傳左衛門さんははまさんと若くして死別しその後かつさんと結婚、かつさんは明治16年まで生きたという事だと思います。なお、はまさんを光譽輪貞大姉、岡部かつさんを純譽妙祐大姉と考えました。確たる証拠はないのですが、岡部傳左衛門さんの戒名から取ったと思われる2文字が入っている戒名を長く結婚生活を続けた岡部かつさんの戒名と考えました。
興味深いのは、妻は二人とも同人妻ではなく名前が彫られている事です。ただしこの墓石は万延2年または明治16年頃立てられたものと推測できますから、文政13年に亡くなったはまさんも墓石を建てた時彫られた可能性が高いと思います。明治16年に亡くなった後妻は岡部かつと名字も揃えられています。
例 7
この墓碑は、明治元年の神仏分離令を挟んで修験道者の夫仏式・妻神式という珍しいものですが、そこは今回は置いておきます。

まとめます。
例1 1651年(万治元年) 箕浦絹江(新井良太)
例2 1836年(天保7年) 同人妻(小林太助義株)
例3 1847年(弘化4年) 同人サイ(町田○○)
例4 1851年(嘉永4年) 同人妻(吉澤平十郎)
例5 1851年(嘉永4年) 同人妻(飯塚岩右衛門重春)
例6 1883年(明治16年) 岡部かつ(岡部傳左衛門)
例7 1890年(明治23年) 同妻緒栞(祢津幸道)
ここで夫婦別姓の歴史に少し触れます。
法務省「我が国における氏の制度の変遷」によれば、1876年(明治9)太政官指令で妻の氏は「所生ノ氏」(実家の氏)を用いる事とされ、1898年(明治31年)旧民法で夫婦は家を同じくすることにより、同じ氏を称することとされました(夫婦同姓)。
つまり明治時代のほとんどは夫婦別姓の時代でした。
考 察
江戸時代上層武士や上級儒者階層ではずっと夫婦別姓でした。勢力・権力のある家と家が結び着いた方が有利だという事でしょう。
この稿の7例は、川原石を乗せただけの墓も多かった時代に墓石を建てられた夫婦ですから比較的裕福な庶民階層という事になるでしょうが、江戸初期には夫婦別姓(例1)の墓を建て、後期になると「同人妻」(例2・4)となり、次第に「同人サイ」「岡部かつ」「同妻緒栞」妻の名前が彫られるようになります(例3・6・7)。
武士階級は別姓ではあったものの、庶民階級は「夫婦」を意識して「同人妻」となり、個人意識の高まりで「同人サイ」「岡部かつ」「同妻緒栞」と名前を彫るようになったと考えます。
そして「岡部かつ」さんの前後の「同人妻」「同人サイ」「同妻緒莉」は苗字は彫られていませんが、彫る必要がない(=同姓)という意識のためと考えます。
資料が増えるにつれて変化するかも知れませんが手持ち史料からは、江戸時代までは夫婦別姓だったけれどその意識は後期になるほど薄れ、江戸時代末期からは実質的には夫婦同姓だったと考えられます。明治政府は夫婦別姓を引き継ぎました(太政官布告)が、家族の一体性を重視する国民の支持を得られず、1898年(明治31年)旧民法で夫婦同姓となりましたと言えると思います。
なお、旧民法では「家を継ぐ者同士」の結婚には高いハードルがあり、日本国憲法下の現行民法では、夫婦で相談していずれかの姓に戸籍上揃える事になりました。
参考史料
江戸時代後期の一般的な夫婦の墓を挙げます。
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寺外に建つこの墓碑も6字居士・大姉ですから比較的裕福な庶民のものだと思われます。夫は1798年(寛政10年)、妻は1801年(享和元年)に亡くなっています。実名は彫られていません。夫婦墓はもっと以前からもあるのですが戒名だけのものが多く、例1~7墓のような墓碑のどこかに本名を刻んだものは珍しくなります。

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