徳川家光の弟、甲府藩55万石藩主徳川忠長(市指定文化財)の墓が大信寺(高崎市)にあります。
2代将軍徳川秀忠には正室江との間に二男家光、三男忠長がいました(長男は早逝)。秀忠と江は利発な忠長を可愛がって、次代将軍にしようと考えていました。しかし、家光の乳母春日局は家光を将軍にするよう家康に直訴して、3代将軍家光が誕生しました。
そんな経緯から家光は家康を神のようにあがめて、秀忠が作った日光東照宮を今に残る絢爛豪華な東照宮に作り直しました(秀忠の東照宮は世良田東照宮はとして移築)。そして家康の墓に面する向きに自分の墓所大猷院をつくりました。
一方、忠長は甲府23万8000石、後に駿河と遠江国の一部を加増され、計55万石の大身となり駿府城に移りました。しかし母親千姫が死ぬと最大の味方を亡くし、深酒、奇行・乱行が目立ち始めます。
1631年(寛永8年)鷹狩りの際に雪が降り、小姓の七之助が雪で濡れた薪に火を付けられなかった事に癇癪を起こし手打ちにしてしまいます。父・小浜光隆(忠長家臣)が幕府に訴え出た結果、腰元に酒を飲ませて責め殺すななどの乱行の数々もあって駿河から甲府への蟄居を命じられます。秀忠の存命中の1630年(寛永7年)乱行などの理由により、所領没収の甲府城に幽閉され、秀忠の死後改易されて1632年高崎藩預かりとなりました。
藩主安藤重長は赦免を願いましたが、認められず、1633(寛永10)年大信寺にて切腹。28歳。墓は43回忌にあたる1675(延宝3年)に建立されました。

43回忌に建てられたという事は、それまで建てられていいなかったか、ふさわしいものに建て替えられたかでしょう。徳川家光没(651年)後、1675年に御廟に囲まれた墓(総高234cmの五輪塔)が建てられました。

戒名:峯厳院殿前亜相晴徹暁雲大居士
忠長の死後、姉千姫から送られた硯箱、水晶の壺と仏舎利塔、豊臣秀頼が着用した陣羽織を袈裟に作り変えたもの、自刃に用いた短刀、自筆の手紙などが位牌とともに大信寺に保存されています。
大信寺は幕府より供養料として100 石を受けるようになりました。 将軍弟の菩提寺である、中仙道を通る参勤交代の諸大名は、前を通るときは駕寵からおりて歩いたそうです。
考 察
忠長の乱行とされるものは人命が現在より軽かった時代とはいえ、将軍になれなかった失意から生じたレベルを超えています。何らかの精神的な病があったのでしょう。幕府も更生の策を尽くしますが成らず、もはやこれまでという判断に至ったのだと思います。単なる兄弟間の嫉妬云々の結果ではないと思われます。
きっと忠長は父母の秀忠江、兄家光と西方浄土で再会できたでしょう。

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