保科正之の墓(土津神社:国重文):福島県猪苗代町

江戸時代

概 要
 2代将軍徳川秀忠の四男として生まれ、兄・甥にあたる3代家光・4代家綱を補佐した、会津藩祖保科正之の墓は土津(はにつ)神社にあります。正しくは保科正之の死後、祭神として土津神社が創建されました。葬儀に際し死穢を嫌う神道で、神社全域が墓場になっているのは異例と言えます。
 保科正之の事績と墓ができた経緯を紹介し、A:必ず仏式による葬儀である事・新たに神社仏閣を建てぬ事という江戸幕府の方針下であるにも関わらず、なぜ神葬墓・土津神社創建が許されたのか、B:正之の墓は神儒葬墓と考えられますが、神葬墓の確立について考察します。

保科正之略歴(参考①)
1611(慶長16)年 家光の異母弟として生まれ、1617(元和3)年2万5千石高遠藩主保科正光の養子となりました。政光は正之の居館を新築し手厚く養育した事により5千石加増され、3万石に。
1629(寛永6)年 秀忠に初対面。秀忠は喜んで葵紋章つきの家康の遺服を与えています。
1631(寛永8)年 保科正光没。元服し幸松丸から正之に改める。
1632(寛永9)年 秀忠没。
1634(寛永11)年 家光と対面。
1636(寛永13)年 山形藩20万石に移封。
1639(寛永16)年 家光の補佐(忌憚なく考えを述べるよう要望あり)。
1641(寛永18)年 家光長男家綱誕生。
1653(承応2)年 日光山大猷廟(現輪王寺大猷院)営繕を行う。
1657(明暦3)年 嫡男政頼18歳で没。院内山に埋葬(会津藩主松平家墓所の始まり)。
1659(万治2)年 天守閣を作るべきとの井伊直孝・酒井忠勝らの意見に対し、見栄だけのものに金を使うべきではないと主張し、再建を認めない形で江戸城再建。
1665(寛文5)年 京都より儒者山崎闇斎を招き、論語を講義させる。以後、ほぼ毎年東上して講義をさせる。
1671(寛文11)年 吉川惟足が神道の奥義を授ける。正之は自分の埋葬は外来の仏教ではなく、古来の神式による事を希望し、吉川は土津霊神の霊号を正之に奉りました。

 保科正之は殉死を禁じ、学校や社倉(凶作や飢饉などに備えて、村や地域で穀物を備蓄した倉庫)を作り、神道を尊び荒れていた神社を復興し、火葬禁止、儒教の根本的な徳目である孝悌(親孝行「孝」と、年長者特に兄によく仕えること「悌」)と勤勉を賞賛・奨励しました。
 また、吉川惟足から吉川神道(古来の神道に朱子学を融合)を、山崎闇斎から朱子学・垂加神道(天皇を神と尊び、神儒の合一を主張した神道)を熱心に学びました。

土津神社・正之の墓(参考②)
 正之は生前何度も訪れ猪苗代湖が見渡せる見禰山の地に神葬祭で眠ろうと考え、ていました。
 しかし当時の江戸幕府の葬送に関する規定は①埋葬は必ず仏式による事、②埋葬は質素を旨とする事、③新たに神社仏閣を建てぬ事。亡くなる2日前に正之より「余の葬儀を奉行せよ」と命じられた家老・友松勘十郎氏興は神葬祭を躊躇して土津神社の造営を許さない2代藩主正経の説得に難航し辞表を提出していますが、並行して吉川惟足が老中稲葉正則を説得し「見て見ぬふりをする」応答を引き出し、友松勘十郎の辞表も撤回されました。

1672(寛文12)年 12月18日正之江戸会津藩邸で没し、遺体は大晦日に鶴ヶ城に到着。
1673(延宝元)年 2月友松勘十郎辞表提出。3月埋葬(現土津神社奥の院)。
1675(延宝3)年 東北の日光と賞された土津神社社殿完成。

 保科正之・会津藩主松平家の墓は塚の上に鎮石(しずめ石)、その前方に表石、そのしばらく前方に藩主の方向をむく形で碑石(亀趺)の3点セットと灯篭で構成されています。
 雪深い3月、南北60間東西50件の雪を払いのけ、周囲にしめ縄を張り、南北9間・東西8間の墓穴を掘り、底は堅炭で固めその上に厚さ2尺の三物(砂・赤土・もち米を突き固めた、現在のコンクリートのようなもの)を流し、その上に1尺2寸溶かした松脂で固めました。
 44回漆で塗り固められた棺の中には山崎闇斎による墳誌も入れられました。

 塚の上には高さ1丈2尺4寸5分、径5尺2寸、正面に「土津神墳鎮石」と彫られた鎮石が置かれ、

 その前方数十間の所に「会津中納言源君之墓」の表石と灯篭2基を建て、すべて完成したのが7カ月後の10月11日でした。

 亀趺はいつ完成したか調べられませんでしたが、1765年の土津神社社殿完成の頃にはできていたものと思われます。

亀趺から表石・鎮石までは直線で約500mの参道が続いています。

考 察
 保科正之の神葬祭が可能となった理由(A)について、神葬墓の確立時期(B)の2点について考察します。

A:保科正之の神葬祭が可能となった理由
 江戸幕府の葬儀規定では、①必ず仏式による葬儀である事、②埋葬は質素を旨とする事、③新たに神社仏閣を建てぬ事です。
①必ず仏葬である事について
 老中稲葉正則の「知っていて知らぬふり」をする事で神式の葬儀ができた訳ですが、水戸徳川家では1661年に藩祖頼房の儒教式の埋葬・墓造営が2代光圀の指示により行われています。
 また、実は儒者が儒葬を行い始めていました。
・1656年 林羅山室荒川亀の儒葬
・1657年 林羅山の儒葬
・1670年 人見ト幽軒の儒葬(大塚先儒墓所)
 昌平坂学問所を作り朱子学を官学化した林羅山や水戸藩に仕えた儒者人見ト幽軒などです。水戸藩の儒葬に人見ト幽軒の影響は大きかったのではないかと思います。
 保科正之がそれを知らぬはずはなく、3代将軍家光の弟であり、4代将軍の補佐役であった自分も、いくらか軋轢はあるにしろ神葬祭ができるだろうと考えたのだろうと思います。
②埋葬は質素を旨とする事
 ①③のような明確な基準はありません。
 しかし、実際は正之の埋葬は質素とは言えません。1672年から1673年10月までの経費は金3493両、人夫延べ32851人、米1085俵かかっています(参考②)。1675年完成の土津神社は東北の日光東照宮と言われるほどの豪華さでした。
③新たに神社仏閣を建てぬ事
 解説板にある磐椅神社は土津神社から700m程離れたところにあります。1500年以上の歴史があり正之が信仰した神社ではあります。その神社の「末社となって磐椅神社に奉仕する」ため、末社の整備であるという理屈づけで、土津神社造営が認められたものと思われます。
 また、正之が見禰山を選んだのは風光明媚な為だけではなく、家康が江戸の真北に位置する日光山から関八州を加護しようと考えたの同様、鬼門にあたる見禰山にしっかりした神社を建て会津を加護しようと考えた可能性もあると考えます。

 いずれも3代家光の弟であり4代家綱の後見役(かつ家綱・5代綱吉の叔父)という将軍家も一目置かざるを得ない人物の希望ですから黙認した、というのが妥当な理由かと思われます。

B:神葬墓確立の時期について
 保科正之の墓・別場所にある会津藩松平家墓所の墓は神葬墓とされていますが、当時の神道は儒教と融合しており、水戸藩瑞龍山墓地の儒式墓と同じく、中国のである亀風伝説的動物(贔屓)に碑を乗せた亀趺が3点セットに入っている点に伺えます。また、表石に記される「○○○君之墓」も儒式墓を連想させます。
 また、神号(土津霊神)は戒名の影響を受けたものと思われます。
 離壇運動が盛んになった1800年前後から神仏分離令(1868年)にかけてが、儒教や仏教の影響を排した神式墓の萌芽期で、薩摩藩主島津家の墓は仏式から神式(戒名から神号)に改号するとき実名が入らない戒名ぽい神号(弥高真性男命)を使っています。一方、1800年代の神長官守矢家の神式墓、神仏分離後の鵜戸神宮宮司の墓では実名(アンダーライン)が入った神号(神長官守矢氏神朝臣實綿霊神之墓、初代宮司新納美庫大人之碑)の墓になっています。
 離壇運動が盛んになった頃から明治初頭にかけてが、神葬墓の確立時期と考えられそうです。

参 考
① 猪苗代町史[第3集](歴史編)、「第6節保科・松平時代」、P269~274、1982年。
② 猪苗代町史[第3集](歴史編)、「第8節土津神社と保科正之・山崎闇斎」、P318~326、1982年。

関 連
① 会津藩主松平家墓所(院内御廟):福島県会津若松市
② 林羅山・儒者の墓(林氏墓地):東京都新宿区
③ 室鳩窓・儒者の墓(大塚先儒墓所):東京都文京区
④ 前橋藩主酒井家の儒墓群(龍海院):群馬県前橋市
⑤ 伊勢崎藩主酒井家・家老関家の儒式墓:群馬県前橋市・伊勢崎市
⑥ 諏訪大社神官 神長官守矢家の墓:長野県茅野市
⑦ 薩摩藩主島津家墓所と神仏分離(国史跡・福昌寺跡):鹿児島市
⑧ 鵜戸神宮・宮司の墓:宮崎県日南市

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