概 要
関ケ原で西軍についた父昌幸・弟信繁と分かれて東軍信之は、1616年上田藩(含沼田藩3万石)9万石、1622年松代藩13万石(含沼田藩)の藩主となり、松代藩真田家は廃藩置県まで10代250年にわたり存続しました。
松代には藩祖真田信之を祭る墓所が、隠居後暮らした大鋒寺と松代藩真田家歴代の墓がある長国寺の2か所にあります。
本稿では大鋒寺墓所を紹介します。
※ 信幸から信之に改名していますが、本稿では信之で通します。
信之年表(上杉征伐以降)
・1582年 この比から真田氏が利根吾妻沼田統治を始める。
・1589年 小松姫と婚姻信之(21歳)。清音院殿(信之従妹)は正室から側室にかわる。
・1590年 北条氏滅亡により、沼田は真田領と確定。
・1597年 信之沼田城整備。
・1600年 会津上杉景勝に謀反の疑いをかけた徳川家康は兵を募ります。真田父子は犬伏(佐野市)で会議を開き、昌幸・信繁は西軍、信之は東軍に付く。戦後、信之9万5千石上田・沼田藩主(上田城破却のため沼田城が本拠地)。
・1614年 大坂の陣。長男信吉、次男信政を派遣。
・1616年 信之本拠を上田に移す。ただし上田城は再建を許されず。沼田城は長男信吉。
・1622年 信之13万石松代藩(信吉沼田3万石、信政川中島2万石、信重川中島7千石を分知地)。
・1657年 次男信政に家督を譲り柴村に隠居所を構える。
・1658年 信政死去。
信之死去、93歳。屋敷は大鋒寺として改められ、信之の墓所がつくられる。
2代藩主信政との不和

(大鋒寺真田信之墓所:市指定文化財)
松代藩真田家は初代信之、2代信政(次男)、3代幸道と続きます。
1622年松代藩13万石に移封された時、信之は長男信吉に沼田3万石、次男信政に川中島2万石、三男信重に川中島7千石を分知地を分地しています。1657年信政に家督を譲り35年間の領主生活にようやくピリオドを打ち、柴村に隠居所を構えます。

(大林寺真田信之霊屋:市指定文化財)
元々はこの霊屋の所に書院が建てられていました。
近習51人、足軽123人、鉄砲之者15人、台所夫11人、馬取り10人、乗り物かき9人、役者7人、納戸番6人、大工5人、坊主4人、料理人3人、風呂炊き、鷹飼、馬医など総勢350人が移住し、柴村は賑やかになりました。
家督を継承した信政が沼田より松城(当時は松城と呼ばれていました)に入り、一年もしない内に中風(脳血管障害)を発症し、信之より先に亡くなります。死期を悟った信政は幕府その他へ遺書をしたためておきながら、父である信之宛てに遺書は無く、信之・信政親子には確執がありました(以上参考①)。確執は長国寺真田家墓所の、離れて建てられた信之と信政の墓にも表れているように思います。
信政が62歳で死去し、その子2歳の幸道と甥の信利(沼田藩2代藩主の子)の間で松代藩の家督争いが勃発した時、信之は幼い幸道の相続を願う書状を幕府に提出しました。
真田信之の墓
三代松代藩主が幸道に決まると、間もなく信之死去、93歳。
三代の幸道のときに隠居所に長国寺の観国和尚を招いて真田林大鋒寺を開き書院跡に霊屋がつくられ、荼毘に付された灰塚の地に高さ3.3mの宝篋印塔が建てられました。


門の外に鳥居、門を入ると鳥居。神格化された墓である事がわかります。


塔身の四面に大鋒寺殿徹巌一当大居士、骨頭片々即法身、万治元戌年、十月十七日烏、

笠には六文銭が刻まれています。

傍らには殉死した鈴木右近忠重(名胡桃城代・鈴木主水の息子、信之の死の翌々日に殉死)の墓が建立されています。万治元年10月19日。享年75。
考 察
真田信之は幕府に気を使いながら九度山に幽閉されている昌幸・信繁の面倒を見、大坂の陣では豊臣方に付いた弟・信繁の下に馳せ参じる家臣がいたり、秀忠に警戒されて上田城再建は許されず、愛しい小松殿は亡く、北国街道の要衝上田から加増とはいえ辺鄙な松代転封は不本意だったと思われます。家光・家綱時代には幕府内でも一目置かれる存在になったとはいえ、長男信吉(2代沼田藩主)、次男信政(2代松代藩主)、3男信重(初代埴科藩主)を亡くし、孫同士の幸道(信政の子)と信利(4代沼田藩主)松代藩主争いの仲裁と、3代藩主幸道は2歳と幼少のため信之が復帰して藩政を執ったりと、安寧の時のない苦難の生涯でした。
また、身の危険を冒しても石田三成の書状を秘密裏に保存し、父昌幸の供養塔(上田市・長谷寺)を建てたりしました。加えて、小松姫の墓・霊廟を上田・沼田・鴻巣・松代に立てている事から、人情味に篤い性格で、それが人望につながっていると思われます。
信之は決して思うような人生を歩んだ訳では無いけれど、外様でありながら幕府に信頼されるようになり、民政に力を尽くし、松代藩の基礎を築いた、人情味溢れる名君と言えると思われます。
鈴木右近忠重の墓について・・・信之は家臣達の殉死を禁じていましたが、生前からの約束で右近にだけは許していたそうです。なお、江戸時代の初めに方柱墓(しかも戒名が無い)があったかは懐疑的です。後世になって作り直された墓石かもしれません。
参 考
① 大平喜間多編:松代町史、P255-325、1929年。
② 長野県:歴史・観光・見所: 大鋒寺。2025年6月23日アクセス。
関 連
・小松姫の墓
・沼田藩主真田家(信吉・伊賀守信利・小松姫・慶寿院)の墓:群馬県沼田市
・真田幸隆・昌幸の墓(長谷寺):長野県上田市
・真田信綱の墓(信綱寺):長野県上田市

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