概 要
上田・沼田藩主真田信之の正室小松姫(大連院殿)は1620年(元和6年)江戸屋敷から草津温泉(群馬県)に湯治池療養へ向かう途中鴻巣(埼玉県)で亡くなりました。鴻巣正願寺で荼毘に付され、遺骨は分骨され正願寺、沼田正覚寺、上田常福寺(現芳泉寺)に葬られました。
信之松代転封にともない、大英寺を開き小松姫の御霊屋を設けました。小松姫の御霊屋は大英寺本堂として残っています。
小松姫(大連院)・真田信之略年表
・1573年 徳川四天王本多忠勝の娘として誕生。於子亥(おねい)・稲姫、後に小松殿・大連院。
・1582年 この比から信之は父昌幸と岩櫃城(群馬県)で吾妻沼田統治を始める。
・1589年 家康の養女として14歳で真田信之(21歳)に輿入れ。清音院殿(信之従妹)は正室から側室にかわる。
・1590年 北条氏滅亡により、沼田は真田領と確定。
・1597年 信之沼田城整備。
・1600年 犬伏の別れ(下掲逸話参照)。関ケ原後、信之9万5千石上田・沼田藩主。
・1614年 大坂の陣。長男の信吉、次男信政を派遣。
・1616年 信之本拠を上田に移す。ただし上田城は再建を許されず、再建開始は仙石氏時代になってから。沼田城は長男信吉。
・1620年 江戸屋敷から草津温泉へ湯治療養の途中、鴻巣で死去。遺骨は鴻巣正願寺、沼田正覚寺、上田常福寺(芳泉寺)に葬られる。小松姫の菩提寺として大英寺を開く。
・1621年 一周忌に上田・常福寺(現芳泉寺)に大連院御霊屋・宝篋印塔を建てる。
・1622年 信之13万石松代藩。
・1624年 大英寺を松代に移す。上田常福寺より大連院御霊屋を移築。御霊屋は明治に大英寺本堂となる。
小松姫(大連院)の墓・御霊屋
1620年江戸屋敷から草津温泉へ湯治療養の途中、鴻巣で死去しました。鴻巣には小松姫が深く帰依する円誉不残二世住職の勝願寺がありそこで荼毘に付され、遺骨は正願寺、長く暮らした沼田の正覚寺、本拠地上田の常福寺(芳泉寺)に分骨され葬られました。
戒名は大蓮院殿英誉皓月大禅定尼。

勝願寺小松姫の墓:一周忌に造塔
勝願寺二世圓誉不残は学徳が高く、徳川家康に気に入られました。小松姫も圓誉に深く帰依していたため、一周忌に娘見樹院が造塔しました。


常福寺(現芳泉寺)小松姫の墓(市指定文化財):一周忌に造塔
上田・沼田藩主真田信之室小松姫の本墓とされています。


正覚寺小松姫の墓(市指定文化財):没年(1620年)か一周忌に造塔
小松姫が結婚期間で最も長く過ごした沼田城下にあります。「犬伏の別れ」に登場するよく知られた逸話は沼田城時代のものです。
押テ御入被成候ハバ、乍恐親君ニテモ一矢可仕候ト被申上候ヘト返事シ玉ヒ、早鐘頻リニ撞キサセ玉ヒケレバ、相残りタル老若の諸士、急キ城ヘ欠付タリ、大書院に出給ヒ、士卒ヲ召テ、此度安房守殿当城ニ御篭リ可有由也、各命ヲ軽ンジ義ヲ守リ防キ玉ヒ、家中ノ諸士用ニ立ヘキハ皆伊豆守殿ノ御用ニテ候ヘバ、ハカバカ敷事ハ有マジク候へ共、叶ヌ時ハ我自害ト思ヒ究メ候ナリ、其旨何レモ心得、妻子不残篭城スベシト相触ヨト夫々手配シ、今ヤ今ヤト待玉フ、(中略)此由申ケレハ、昌幸打笑ヒ、左衛門佐聞玉ヘ、武士タラン者ノ妻ハ誰モカク社有タケレ、頼母シキ事哉(下略。「大連院殿御事蹟稿」:参考①)
上杉征伐の折、「犬伏の別れ」(栃木県佐野市)で信之家康方、昌幸信繁三成方に分かれ、昌幸一行が上田城へ取って返す途中、「孫の顔を見たい」と沼田城に寄ろうとした所、留守を守る小松姫は親君(昌幸)であっても、制止を聞かず入城しようとするなら、命を懸けて城内の老若の残兵と共に矢を打ちかけます。そう伝えると昌幸は「(上杉征伐に向った)信之よ~く聞け、小松姫は武士の妻の鑑だ。頼もしい嫁だ」と声高に笑った。


大英寺小松姫御霊屋(長野県指定文化財):現在は本堂
1622年信之が13万石松代藩に移封されると、1624年上田の大英寺を松代に移し、小松姫の御霊屋を造り祭ります(参考②)。明治維新の後、真田家の援助も寺領も無くなり大寺院の維持は困難になり、御霊屋を本堂にしました。
参 考
① 山田武麿:上州の諸藩(下)、P67-69、上毛新聞社、1982年。
② 山下久猛:第9回【芳泉寺】信幸(信之)の愛妻・小松姫が眠る寺、文春オンライン。2025年6月10日アクセス。

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