概 要
豊臣政権きっての武闘派大名は小山評定・関が原戦いの功績で徳川政権において広島藩50万石の太守となり、民生面でも善政を敷きました。しかし、幕府の許可がおりる前に広島城修善をした事が武家諸法度に反するとされ、信州高井野藩4万5000石に減転封されました。高井野藩での生活はわずか5年間でしたが用水開削、新田開発、治水工事などの功績を残し領民から慕われました。
しかし、嫡男忠勝が早逝したため2万5000石を幕府に返納し、その4年後死去しました。幕府の検視役が到着する前に荼毘に付した事、跡継ぎが定まっていなかったため福島家は取り潰しになりました。
その福島正則の墓・荼毘所は寺院と領民に大切に守られ、現在に伝わっています。
福島正則略年表(満年齢)
・1561年 尾張国で豊臣秀吉の甥(母が豊臣秀吉の叔母)として誕生。
・1578年(17歳) 初陣を飾り禄高200石。
・1582年(21歳) 明智光秀との山崎の戦で軍功をあげ500石。
・1583年(22歳) 柴田勝家との賤ケ岳の戦いにおいて大功をたて、5000石。
・1587年(26歳) 秀吉の九州平定の後、今治11万3000石。
・1592年(31歳) 朝鮮出兵(文禄の役)で五番隊の主将。
・1595年(34歳) 正則が使者となった豊臣秀次切腹の年に、清州24万石。
・1599年(38歳) 加藤清正らと石田三成を襲撃(七将襲撃事件)。正則の養子正之(姉の子)と家康の養女満天姫(家康異父弟の娘)と婚姻(秀吉の遺命に反する私婚)、家康との仲を深める。

・1600年(39歳) 家康の会津征伐に従軍、三成挙兵を受けた小山評定で真っ先に家康の味方をすることを伝え、迷う諸大名を家康方に加担させることに成功。関が原での奮戦も含め、広島藩50万石の太守となる。
・1611年(50歳) 家康・秀頼の二条城会見を加藤清正や浅野幸長とともに説得し、実現。
・1614年(53歳) 大阪冬の陣、夏の陣(1615年)では江戸留守居役を命じられる。嫡男忠勝が幕府軍として参戦。
・1619年(58歳) 広島城本丸・二の丸・三の丸・石垣等を無断修繕したことが武家諸法度違反に問われる。広島藩50万石は没収、高井野藩4万5000石に減転封。
・1620年(59歳) 嫡男忠勝早逝。2万5000石を幕府に返上。

(福島正則公荼毘之地)
・1624年(63歳) 高井野(長野県高山村)で死去。遺言により幕府の検視役が到着する前に荼毘に付したため福島家は取り潰し。
・1625年 幕府は正則の功績を考え、三男正利に正則旧領から3112石を与えて旗本に取り立てますが嫡子なく、廃絶。忠勝の孫・正勝を2000石旗本に取り立て。
高井野藩主として
高井野藩に入るにあたって、正則・忠勝共に妻を別離して実家に帰し、従えた家来は30数人でした。
4万5千石の領地は川中島高井郡2万石・越後魚沼郡2万5000石と飛び地で、築城も許されない藩主生活でした。
堀之内館(現高井寺)に住まい、剃髪し高斉と号しました。

(高井寺)
堀之内館は103m×70mの方形で、外周を土塁と空堀を巡らせていました。現在土塁はほとんど改変され、空堀は埋め立てられ生活道路となっています。


高井寺境内には1855(安政2)年造立の「海福院殿前三品相公月翁正印大居士」と彫られた福島正則供養塔が建てられています。
福島正則には嫡男正勝がいました。


(福島忠勝の墓:大乗寺)
しかし忠勝(正勝)早逝のため領主に復帰し、検地を実施し、年貢を免除しての新田開発、用水路整備、替佐村(現中野市豊田地区)内の千曲川流路付け替え、高井野村(現高山村高井)の福島堰、千曲川支流の松川の築堤工事などの功績を残し(参考①)、領民から慕われました。
墓について
正則はかねて赤和村(現高山村赤和)に海福寺を興して菩提寺としようとしました。理由は分かりませんが海福寺を開くことはできず、既存の岩松院(現小布施町)に50石を寄進し岩松院海福寺とし菩提寺としました(参考②)。位牌は岩松院に納められ廟所(小布施町指定文化財)も同寺境内に設けられました。遺骨は正則の菩提寺である京都の妙心寺の塔頭・海福院に埋葬されました(参考①)が、岩松院HP、下掲説明板を読む限り、岩松院にも分骨されたかも知れません。



この扉の奥に海福寺殿前三品相公月翁正印大居士と刻まれた高さ2.5mの五輪塔が安置されています。
考 察
石田三成と反りが合わず豊臣家存続を徳川家康に賭けた結果、自身は50万石の太守となる(幕府はそれだけの実績・統治能力があると評価したのでしょう)も豊臣家は滅亡し、広島藩主5年間から大減転封で高井野藩主。
嫡男忠勝(次男:幼名正勝)に家督を譲り隠居後1年もせず忠勝が急逝、魚沼2万5千石を幕府に返上と、階段を転げ落ちるように人生が暗転しました。
関が原から狂いだした人生を振り返り、選択は正しかったのか苦吟しながらも、領民の生活向上のために新田開発・治水事業などを行っています。晩年を迎え猛将としての面影は無く、ただ領民のために働き、領民から慕われたのでしょう。
正則自身が病に伏して死期を悟った時に家臣に幕府から検視役が来る前に荼毘に付せと命じたのは、幕命に従っても従わなくても取り潰しの状況で、せめてもの反抗だったのでしょう。
高井野藩主福島家は取り潰しになりました。しかし、幕府は三男正利に正則旧領から3112石を与えて旗本に取り立て、正利に嫡子なく廃絶後は忠勝の孫・正勝を2000石の旗本に取り立て、福島家に報いる措置を取っています。
正則の意に反した人生であったと思われますが、結果的には徳川家康に次ぐ江戸幕府設立の立役者であったと考えます。
疑 問
忠勝が亡くなった時長男正長は5歳でした。正利或いは正則を後見人に正長の藩主願いを幕府に出せば認められたでしょう。実際、沼田藩真田家では2代藩主信吉が亡くなった時、信政(信吉弟)を後見人に7歳の熊之助が3代藩主になっています。
正長の藩主願提出について、可能性は下記のいずれかです。
① 提出されたが却下された。
② 提出されなかった。
①であれば、言及している史料がありそうですが、調べた限りでは見つかりませんでした。したがって、②の可能性が高いと思われます。
参 考
① 小布施町史P、小布施町史刊行会、1975年。
② 渡辺画仙:福島正則公、岩松院、1912年。
③ 岩松院HP:2025年6月4日アクセス。

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