慈眼院結城家御廟:茨城県結城市

江戸時代

概 要
 慈眼院結城家御廟には初代結城朝光から16代政勝までの16基、無銘のもの4基の合計20基の五輪塔が並んでいます。
 慈眼院は16代政勝が開き、初代朝光以来の結城家歴代の廟所を慈眼院に移転した(1553年・天文22年)のですが、自身は乗国寺に葬られました。現在は政勝の墓も慈眼院結城家廟所にあり、最終的に誰がまとめたのかいくつか説があります。

結城家18代
 結城朝光を祖とする結城家は、19代結城秀康(越前北ノ庄に転封)まで続きました。
初代朝光・・・源頼朝と乳兄弟(母親が頼朝の乳母)で烏帽子親、頼朝妻北条政子と朝光妻は姉妹という関係に加え武力・調整力に優れ、執権北条義時にも篤い信頼を置かれ、鎌倉幕府の有力御家人として活躍。87歳で没し、称名寺(結城市)に葬られ、稱名寺殿日阿弥陀佛。
 その後、結城家御廟に墓は移転されました。
2代朝廣・・・後鳥羽上皇との承久の乱で戦功を挙げるなどし、鎌倉幕府で重きをなし、結城氏全盛時代を築きました。出家後廣綱に家督を譲ります。称名寺(結城市)に葬られ、妙藏院殿信阿弥陀佛。その後、結城家御廟に墓は移転されました。
3代廣綱・・・廣綱が家督相続するにあたり、弟祐広が白河荘を嗣いで白河結城家を立てます。称名寺(結城市)に葬られ、新福寺殿教阿弥陀佛。その後、結城家御廟に墓は移転されました。
4代時廣・・・10歳足らずで当主となり24歳で亡くなり称名寺(結城市)に葬られ、法藏寺殿證阿弥陀佛。その後、結城家御廟に墓は移転されました。
5代貞廣・・・1歳になる前に当主となり、母が事実上当主を代行していたようです。21歳で亡くなりました。墓所不明。正仲寺殿眼叟英清居士(院号焼失につき後諡 )。
6代朝祐・・・鎌倉幕府滅亡後は足利尊氏に従い、九州下向にも従い多々良浜合戦で戦死しました。朝高とも。墓所・戒名不明。
7代直朝・・・12歳で家督を継ぎ、北畠親房・白河結城家など南朝方との関城合戦で戦死。享年19歳。関城跡に墓が現存、大竜庵固翁堅大。
8代直光・・・直朝の弟。朝祐・直朝2代にわたり当主が若死にする危機を迎えましたが、観応の擾乱では足利尊氏に従い、直光は足利尊氏、義詮、義満の信頼され、結城家を隆盛に導きました。南北朝合体3年後没。享年67歳。墓所は不明。華藏寺殿天海聖朝居士。
9代基光・・・直光の1歳違いの弟で直光とほぼ同じ行動。小山義政の乱を鎮めて、下野守護になりました。初代朝光が小山家から分家独立したのが結城家ですから、主家を手に入れた形になります。幕府と鎌倉公方が対立するようになると、鎌倉公方に臣従。関東の有力有力守護大名として最盛期を迎えました。墓所・戒名不明。
10代満廣・・・幕府と鎌倉公方が対立するようになると、鎌倉公方に臣従。9代基光に先立って、37歳没。墓所不明。雲叟聖竜。
11代氏朝・・・10代満廣の弟。永享の乱で鎌倉公方が衰退すると、氏朝・持朝父子は鎌倉公方・足利持氏の遺児達を結城城に匿って幕府軍と戦い(結城合戦)討死。享年40歳。墓所不明。藤山明永。
12代持朝・・・同上。氏朝と共に結城合戦で討死。21歳。墓所は乗国寺(当時は福厳寺)。福厳寺殿天英聖勇大禅定門。乗国寺は持豊の菩提を弔うために開かれました。
13代成朝・・・11代氏朝の四男。結城合戦の際、常陸国の佐竹氏の許へ落ち延び、5代鎌倉公方足利成氏(後に初代古河公方)によって結城氏が再興されました。墓所は乗国寺?、天江永城。
14代氏廣・・・福厳寺を乗国寺と改称し現在地に移転。享徳の乱で古河公方足利成氏と関東管領(公方の補佐・監視役)上杉氏が対立すると、古河公方に味方。享年31。墓所は乗国寺?、乗国寺殿日峯宗光大禅定門。
15代政朝・・・正妻の実家である宇都宮氏と断絶。墓所は永正寺(後の孝顕寺)、永正寺殿宗明孝顕寺大居士。
16代政勝・・・結城藩の新法「結城氏新法度」を定めました。慈眼院を開き、初代朝光以来の結城家歴代の廟所を慈眼院に移転しました。墓は乗国寺、後乗国寺殿大雲藤長有髪僧。
17代晴朝・・・政勝の甥。秀吉の小田原攻めでは北条方の榎本城(小山)を落城させ、秀吉から大名としての地位を認められます。結城家の存続と繁栄を願って羽柴秀康(秀吉の養子・家康の次男)を継嗣として迎え入れました。墓所は孝顕寺(福井市)、泰陽院殿宗静孝善大居士。
18代秀康・・・17代晴朝に請われて養子となり結城秀康(秀忠の異母兄)。関ケ原の戦い時に上杉景勝(会津)の監視役とし宇都宮に布陣し、戦後越前北ノ庄藩68万石に加増転封。いつ松平を名乗ったのか名乗っていないのか不明ですが、越前松平家の祖とされています。

慈眼院結城家御廟
 慈眼院結城家御廟には初代朝光から16代政勝までの五輪塔がまとめられています(17代晴朝は福井市の孝顕寺)。
 往時は濠に囲まれ(慈眼院全体だろうと思います)、土盛りされ玉石で葺かれた塚の上に墓地が構えられ、床面には大谷石が敷き詰められ、墓地面の周囲は土塁が巡らされていました。

 (土盛りされた塚の上に墓地があるのが分かると思います。)

(墓地面より30~40cm高い土塁で囲まれています)

 左から8代直光、6代朝祐、4代時廣、2代朝廣、初代朝光、3代廣綱、5代貞廣、7代直朝。
 初代朝光の五輪塔が最小です。また、大分崩壊していますが、大谷石の石畳が敷き詰められていたのが分かります。

 左から9代基光、11代氏朝、13代成朝、15代政朝。

 左から16代政勝、14代氏廣、12代持朝、10代満廣。

考 察
 結城家18代の項では16代政勝が初代朝光以来の結城家歴代の廟所を慈眼院に移転説をあげましたが、16基の五輪塔全てが花崗岩製であるから後に同一時期にまとめて造られたとも考えられます。結城市史では後者が有力だと考えています(参考①)。関城に墓がある7代直朝の五輪塔は、この廟所ができた時に作ったものと考えて良いかもしれません。この場合16代政勝がまとめて造ったと考えられ、政勝の五輪塔(逆修供養塔)が16基中最小なのはそのことを裏付けるかもしれません。
 しかし、初代~4代は稱名寺から移転されたと広く言われていますし、五輪塔の水輪(球体)、火輪(笠)の形状は扁平な球体から真球に近いものまでバラエティーがありますし、笠と球の大きさバランスもかなり違いますし、笠の反りの有無でも違いが見られます。また、まとめて作ったなら家祖朝光の五輪塔はもっと大きく立派なものにして良さそうに思います。
 したがって、解説板にある「(一)隠居後政勝が各所にあった先祖の墓を移して惣御廟を作った」説が腑に落ちます。ただし、乗国寺の政勝墓を結城家御廟に移したのは常識的には、17代晴朝か18代秀康と思われます。
 (二)(三)は史料があるのかどうか不明ですが。
 結城秀康説・・・17代晴朝は武勇と血筋に優れた秀康の婿養子を懇願したのでしょうが、秀康は家康の関東防衛戦略上結城家に婿入りしたように思われます。現在では結城秀康の名で有名ですが、結城家当主は10年にも満たず、転封後は越前松平家の祖となって結城家に強い愛着があったかは不明です。
 ただし、隠居したとはいえ晴朝がいますから、晴朝の意向を汲んで18代当主秀康が16代政勝を改葬したと考えるのは妥当性があると思われます。
 伊奈忠次説・・・天領の代官となって治めた旗本伊奈忠次の意思で、幕府の指示なしに御廟の整備をするのは難しいと思われます。また、没年を比較すると、忠次1610年、晴朝1614年、秀康1607年ですから忠次が改葬したとなると、隠居の身とはいえ少なくも越前の晴朝の承諾は得ているはずと思われます。
 

参 考
① 結城市史編纂委員会:結城市史 第4巻 (古代中世通史編)、1980年。
② 乗国寺資料集:年表。2025年5月9日アクセス。

関 連
① 伝・結城朝光の墓、大将塚(称名寺):茨城県結城市

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