概 要
小山市周辺に勢力を張った小山政光の三男として誕生し、平安時代末から鎌倉時代にかけて源頼朝の有力御家人として活躍した結城朝光から四代の供養塔とされる層塔と源頼朝供養塔とされる五輪塔が称名寺(結城市)にあります。
結城朝光
結城朝光は奥州藤原氏との奥州合戦に源頼朝軍として参加し、戦後は白河荘を与えられました。また、後白河上皇と対面、右近衛大将拝官の上洛の折にも、付き従っています。また、東大寺再建大供養の際には、和田義盛・梶原景時以下の門を警護する武士たちと門から入ろうとする衆徒(僧侶)との大騒ぎを説得して収めた事が頼朝に高く評価されました。弁舌・武力能力に加え母寒川尼が頼朝の乳母であった事から頼朝とは乳兄弟であり、頼朝が烏帽子親であり、義理の兄弟(頼朝の妻・北条政子の妹阿波局が朝光の妻)という親密な関係もあったと思われます。
承久の乱時には執権北条義時のもと平定し備中吉備津宮領社務職・地頭、幕府の評定衆に任命されています。
1254年(建長6年)87歳の生涯を閉じ、自ら開いた称名寺に葬られました。
法名は称名寺殿日阿弥仏陀。
なお、関が原の戦い後結城家18代当主秀康(徳川家康次男)が越前68万石に転封されるまで、結城を治めました。



初代朝光、2代朝広、3代広綱、4代時広の五輪塔は江戸時代に慈眼院結城家御廟に移されたらしく、この層塔は朝光から時広までの供養塔ではないかと考えられています(資料②)。

大将塚
同境内には「史跡 大将塚」と彫られた石塔と共に、小さな五輪塔があります。



こちら「大将塚」は今は廃寺となった六本寺の境内にあったものです。移転時の調査では五輪塔以外の遺物や遺構は発見されませんでしたが、右大将源頼朝を祭った塚と伝えられています(資料①)。
ただし、「此塔結城家之墓」(明治22年)との尖頭方柱碑も立てられています。大将塚と結城家之墓の関係は不明です。
考 察
慈眼院結城家御廟には初代から16代までの当主の五輪塔があります。称名寺にあったとされる初代朝光~4代時広の五輪塔は、もともとはこの層塔付近に立っていたと想像されます。その4基の五輪塔を移した時(1553年・文22年)に代わりに4人の供養塔として造立したものか、同時に立っていたかですが、この層塔は鎌倉時代~室町時代頃に造立されたものと考えられ、称名寺境内に4基の五輪塔と共に立っていたと考えます。
この層塔は遠祖藤原秀郷や朝光父小山政光などを祭った祖先塔であるかもしれません。また、2層塔身、3層塔身の間にもう一層塔身があったかも知れません。
また大将塚は結城朝光と源頼朝の親密な関係を考えれば、在って不思議はないものと思われます。
参 考
① 結城市史編さん委員会:結城市史(古代中世通史編)、P203‐204、206-223、1980年。
② 結城市:市指定文化財 史跡(詳細)。2025年5月6日アクセス。
関 連
① 慈眼院結城家御廟:茨城県結城市

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