唐津・浜松・山形藩主水野家墓所・亀趺と無縫塔(忠元系水野家・万松寺跡):茨城県結城市

江戸時代

概 要
 水野忠邦ほか水野家当主が眠る墓所(市文化財)です。徳川家の譜代の臣水野忠元が大阪の陣後、山川藩3万5千石の大名となり、以後田中藩主、吉田藩主、岡崎藩主、唐津藩主、浜松藩主、山形藩主と勤め、明治維新を迎えます。
 万松寺(幕末の火災で焼失)に11代水野忠邦までの墓碑が立てられています。天保の改革・水野忠邦の墓は別稿で紹介しています。
 興味深いのは9代水野忠鼎の墓で、亀趺になっています。儒式墓の可能性が高いと考えられます。
 明治17年没の山形藩主水野忠精の墓は妙高寺(世田谷区)にあります。

水野家墓所(忠元系水野家・万松寺跡)
 以下11代の戒名は現地墓石に彫られたものと参考①が出典です。



初代水野忠元 万松寺殿休翁宗罷大居士

 徳川家康の従弟。秀忠側近。大坂の陣後に山川藩(結城市)3万5千石の藩主。

2代水野忠善 銕性院殿破鐘了勘居士

 2代山川藩主、4万5千石田中藩主(藤枝市)、4万5千石吉田藩主(豊橋市)、5万石岡崎藩主(岡崎市)。岡崎藩内の乾坤院(愛知県東裏町)にも墓所。

3代水野忠春 通霄院殿本光宗慧大居士

 2代岡崎藩主。奏者番、寺社奉行、大阪城代。西の丸大手門番、京都上使役。

4代水野忠盈 太雲院殿鐵船道駕大居士

 3代岡崎藩主。西の丸大手門番、京都上使役。

5代水野忠之 高隆院殿祥岳元貴大居士

 4代岡崎藩主(6万石)。奏者番、若年寄、京都所司代。1717年老中、徳川吉宗の享保の改革を支えた。

6代水野忠輝 陽徳院殿䅣山良輝大居士

 5代岡崎藩主。

7代水野忠辰 太照院殿圓覺惟鏡大居士

 6代岡崎藩主。緊縮財政により財政再建。藩政改革に取り組むも保守派の妨害により挫折。遊興にふけり幽閉(水野騒動)。

8代水野忠任
 寛齢院殿権賢質良穏大居士

 7代岡崎藩主。
 初代唐津藩主(6万石)。財政再建のため増税するが明和時代に洪水・干ばつ・蝗害(蝗の大量発生)断続的に5年続き、農民の反発を招き(虹の松原一揆)増税を撤回。

9代水野忠鼎

 2代唐津藩主。奏者番。8代水野忠任(義父)の時代に見られるような農民との軋轢を落ち着かせました。天明2・3年の大飢饉では餓死者を出すほどになりましたが、炊き出しなどをして救済。並行して財政再建を試みましたが、成果は上がりませんでした。
 特筆すべきは、困窮する藩財政の中儒者を揃え藩校経誼館(けいぎかん)設置したことです。後の小笠原氏時代の志道館の礎となりました。
 その経誼館の上棟文(1801年)には「忠鼎公は学問好きで古の聖賢道を尊び、孝行が政治の根本であるという思召しから、茲に新しく学館を設けられた。君主たる者は天の経、地の誼、即ち天地の大道に則り臣民は親に対しは孝敬、君には忠誠を尽くし、夙夜その職務に精励し各々その仕事に励み、朝夕親を大事にし和やかにニコニコと、立居振舞はキビキビと身体髪膚を毀傷しないよう務むれば、藩中一人の刑を受ける者も無くなるであろう。此の館で学ぶ子弟は先生に親しみ朋友と仲睦じくしていったならば、日進月歩必ず忠孝の人となるであろう。かくあってこそ、南山の崩れざるが如く、千万歳の繁栄を得られるであろう。」
 財政ひっ迫にもかかわらず経誼館を開設した事にには忠鼎の強い意志が伺えます。
 例外はありますが、位の高い人物の儒式墓として亀趺墓は立てられます。忠鼎の墓碑は水野家11代の墓で唯一亀趺になっています。

10代水野忠光 珍諦院殿寛豊是道大居士

 3代唐津藩主。

11代水野忠邦 英烈院忠亮孝友大居士

 4代唐津藩主。奏者番。幕閣内での昇進を目指し、6万石唐津藩から5万3千石浜松藩への転封を願い出る(実封は25万3千石→)。
 初代浜松藩主。寺社奉行。西の丸老中となって将軍世子・徳川家慶の補佐役。本丸老中、老中首座(1839年)。天保の改革(1841~1843年)。

考 察
 水野家11代の墓は初代・4代が宝篋印塔、2代は無縫塔、3・5・6・7・8・10代が笠塔婆、9代が亀趺墓、11代水野忠邦は円頂方形墓です。
 二代忠善の無縫塔・・・ 乾坤院(愛知県東裏町)に自身を含め「水野家四代の墓所」(祖塔として忠政墓は宝塔、忠守・忠元・忠善墓は五輪塔)を造営しました。そして結城山川の地に菩提寺として万松寺を建立し、父忠元を葬りました。
 この様に暑く仏教を信奉した忠善は、水野家墓所も含め大名の戒名には大居士の位号が一般的な中、忠善墓だけは居士となっています。そして僧の墓石に多い無縫塔。仏教に帰依するにつれ、大名だから大居士をではなく、仏教者として修養を高める途上という考えの下この居士にしたのかも知れません。
 墓は三代忠春が立てたと思われますが、忠善の遺志によるか三代忠春の意向か不明ではあるものの、いずれにしろ墓の形と戒名には忠善の言動を反映していると思われます。
 九代忠鼎の亀趺墓(竿石に戒名が刻まれていません)・・・亀趺墓は水戸徳川家、鳥取藩主池田家など高位の儒家大名墓に用いられます。江戸時代末期に焼失した万松寺の過去帳に記載されていたか否か不明ですが、経誼館の上棟文に見られるように朱子学に傾倒していた忠鼎は亀趺墓を万松寺に建てる際に戒名を拒否したのかも知れません。儒式墓と考えられそうです。
 ちなみに戒名のない大名墓は前橋(姫路)藩主酒井家墓所・伊勢崎藩主酒井家の儒式墓と考えられる墓に見られ(いずれも笠塔婆です)、共に前橋市龍海院にあります。特に伊勢崎藩酒井家の場合、儒式墓は龍海院、仏式墓は浅草の崇福寺(現在は葛飾区に移転)にありました。
 11代水野忠邦墓・・・円頂方形墓で竿石の前面には「濱松城主従四位下侍従越前守源朝臣之墓」と彫られ、戒名「英烈院忠亮孝友大居士」は忠邦の顕彰文と共に側面に入っています。忠邦は戒名を前面に出すより、生前の地位「濱松城主従四位下侍従越前守源朝臣」を前面に出したかったのでしょう。

参 考
① 寛政重脩諸家譜 第2輯、國民圖書、1923年。
② 唐津市史編纂委員会:唐津市史、P588-607、1962年。

関 連
水野家墓所
・天保の改革・水野忠邦の墓(万松寺跡):茨城県結城市
儒式墓
・前橋藩主酒井家の儒墓群(龍海院):群馬県前橋市
・伊勢崎藩主酒井家・家老関家の儒式墓:群馬県前橋市・伊勢崎市
・林羅山・儒者の墓(林氏墓地):東京都新宿区
・室鳩窓・儒者の墓(大塚先儒墓所):東京都文京区
亀趺・亀趺墓
・薩摩藩主島津家墓所と神仏分離(国史跡・福昌寺跡):鹿児島市
・砥石神社の贔屓・亀趺:群馬県沼田市

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