概 要
江戸時代の三大改革の一つ天保の改革を主導した水野忠邦の墓(県文化財)が茨城県結城市山川にあります。水野家初代忠元が忠元が、大坂夏の陣(1615年)の功績により、三万石(山川領・結城領・下野鹿沼領各1万石、後に近江国蒲生郡五千石加増)を与えられて初めて大名にとりたてられたゆかりの土地であり、国替えになった後も水野家は代々山川の万松寺(江戸時代末期に火災により消失)に墓地を営み続けました。
江戸時代の三大改革の一つ天保の改革の主導者、水野家11代忠邦自身は唐津藩主・浜松藩主で山川藩とは直接かかわりはありません。改革失敗により蟄居後山形藩で亡くなりましたが、この地に埋葬されました。
天保の改革
水野忠邦(1794~1851年)は1841年(天保12年)11代将軍徳川家斉の死後老中首座となり、天保の改革行いました。
江戸時代の三大改革
・徳川吉宗 享保の改革(1716~1736年)
・松平定信 寛政の改革(1787~1793年)
・水野忠邦 天保の改革(1841~1843年)
1833年(天保4年)から始まった天保の大飢饉で米価高騰、餓死者が出た大阪では大塩平八郎の乱(1837年、天保8年)が起こるなど、社会不安が高まった天保時代。
11代将軍徳川家斉(隠居後は大御所)が天保12年に没すると、水野忠邦(1794~1851年)は12代将軍徳川慶の信任を受け中首座となり幕政改革に着手しました(1841・天保12年)。
水野忠邦は農村再建のための江戸や大阪などに流入した農民は農村に帰る事(人返し令)、経済活性化のため株仲間の解散、幕府財政再建のため上知令(江戸・大阪の周辺にある大名・旗本領地を取り上げて天領にする)、質素倹約などを主導しました。しかし、あまりにも厳しすぎたため諸大名や民衆の反発を招きわずか2年余で挫折し失脚しました。


濱松城主従四位下侍従越前守源朝臣之墓
水野忠邦
・1794年唐津藩第3代藩主水野忠光の次男として誕生。
・1812年長男早逝のため第4代唐津藩主(6万国・実封25万3千石)。
・1817年浜松藩6万石に転封(実質15万3千石)…これは幕府内での昇進を望む忠邦が熱望して。
・1825年大阪城代、従四位下。
(1825年外国船打払令)
・1826年京都所司代、侍従・越前守。
・1828年西の丸老中、将軍世子・徳川家慶の補佐役。
(1833年天保の大飢饉。1839年まで)
・1834年本丸老中。
(1836年甲斐の百姓一揆)
(1837年大塩平八郎の乱)
・1839年老中首座。
(1839年蛮社の獄で蘭学者の渡辺崋山や高野長英らを弾圧)
(1840年アヘン戦争)
・1841年大御所家斉没後その側近を更迭し、天保の改革に着手。
(天保の薪水給与令)
・1842年株仲間解散令(1850年まで)
・1843年人返し令(逃散農民を農村に帰す。農民が商業に手を出すことの禁止)
・1843年上知令発布と撤回・老中罷免(大名・旗本の反対に加え、腹心が反対派に寝返り、失脚。)
老中を罷免され三田の中屋敷に引っ越した時の漢詩(参考①)
| 欲救蒼生天下飢 世人報道我軽肥 傍観当局誰能識 自悔十年相業非 | 蒼生天下の飢を救はんと欲す 世人我が軽肥を報道す 傍観当局誰か能く識らむ 自ら悔ゆ十年相業非 | 私は天下の民の飢を救おうとした。世の人は、私が好き勝手やっていると噂しあった。部外者に何がわかるだろう。 |
・1844年老中首座に復帰するも体調不良で欠勤、老中辞職まで長期欠勤。
・1845年老中辞職。家督は長男忠精に許された上で強制隠居・謹慎。山形藩5万石に転封。
・1951年死去。謹慎を解かれる。万松寺に葬られる。

英烈院忠亮孝友大居士

辞世の歌 くみてこそ むかしもしのへ ゆく川の かへらぬ水に うかふ月かけ
過去を懐かしく思うけれど、流れ去った昔は戻らない。川面に浮かぶ月影は儚いものだ。


考 察
忠邦は幕閣内での栄達を目標に人生を歩みました。幕閣内の出世が望めない唐津藩には、5年間の藩主時代一度も赴いていません(資料②)。加えて石高は減るものの幕閣の登竜門である浜松藩への転封を強く願った事は、地元民に良く思われず、家老二本松義廉の諌死に遭ったりしています(資料③)。それは息子忠精の代になって浜松藩から山形藩への移封時にも、水野家の民を顧みない治世に農民一揆(1846年、弘化3年)が起こっています(資料④)。
忠邦の幕府内での栄達という人生目標が叶い老中首座まで上り詰めた時は、国内外の激動の時代でした。アヘン戦争で清がイギリスに負けた事、外国船が開国を求め来航した事、南米火山の噴火の影響で東北地方を中心に冷害に見舞われる天保の大飢饉の最中と、内外の課題山積の中、忠邦は老中となり、国民には質素倹約、歌舞音曲の規制などに加え、国民生活の基盤である農村再建、経済活性化、幕府財政再建のために、さまざまな政策を矢継ぎ早に打ち出し天保の改革を主導しました。
しかし、人心は離れ、天保の改革が僅か2年で挫折しました。思い込んだら一心に突き進む性格に加え、上述のような忠邦の人望の無さが災いしたように思います。
関 連
・水野家墓所・亀趺と無縫塔(忠元系水野家・万松寺跡):茨城県結城市
参 考
① 左大臣どっとこむ:水野忠邦(五)失脚と浜松打ち壊し。2025年4月25日アクセス。
② 児玉幸多, 木村礎 編:大名列伝 第7 (幕閣篇 下)、人物往来社、1967。
③ 唐津市史編纂委員会:唐津市史、P588-607、1962年。
④ 浜松市:浜松市史2(近世編)、P305-337、1971年。

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