諸刃の剣に上り龍・日本鍛冶宗匠八代目の墓(良珊寺):群馬県渋川市

江戸時代

概 要
 藩主に抱えられた刀鍛冶は経済的安定を得られていましたが、農具や工具なども制作した野鍛冶も刀鍛冶を行っていました。彼らの中には技術の保証を求め、京都の日本鍛冶宗匠と言われた三品家の門人となり、鑑札を受けて営業している者がいました。門人になると多額費用がかかりましたが、禁裏御用鍛冶の肩書を名乗ることができました。
 三品家八代・九代頃には群馬県内に門人が17人居ました(参考①)。
 日本鍛冶宗匠八代目伊賀守金道は幕末の1856年(安政3年)渋川で客死。良珊寺(りょうさんじ)にその墓があります。
 墓石は刀匠らしく諸刃の剣に龍が巻き付く珍しいデザインです。
 八代目の墓がなぜ渋川市に在るのか推論します。

日本鍛冶宗匠
 三品金道は美濃国関出身の刀鍛冶で1593年(文禄2年)父兼道・その子4人で上洛し鍛刀しました。翌年伊賀守を受領(ずりょう)。関ケ原合戦直前に徳川家康より太刀1000腰の注文を受け、本鍛冶宗匠 三品金道は美濃国関出身の刀鍛冶で1593年(文禄2年)父兼道・その子4人で上洛し鍛刀しました。翌年伊賀守を受領(ずりょう)。関ケ原合戦直前に徳川家康より太刀1000腰の注文を受け、洛内の鍛冶を支配下に入れることを条件に受注、合戦後家康の取次で「日本鍛冶宗匠」の勅許を得ました(資料②)。
 こうして権威を得た三品金道家では全国の刀鍛冶を門人として組織し禁裏御用鍛冶の肩書を与える代わりに、祝儀金や受領名奏上手数料などで多額の収入を得ていました。

日本鍛冶宗匠八代目伊賀守金道の墓
 晩年、日本鍛冶刀匠八代目伊賀守金道(三品五左衛門)は京都誓願寺に出家し鉄翁と称し、門人を渡り歩きました。1856年(安政3年)渋川元町(現在の本町)に滞在中客死し、良珊寺に葬られました。

 高さ124cm、諸刃の刃(竿石)57.5cm、台石29cm。

  日本鍛冶宗匠八代目 
  一心院剣玉臥竜居士
  安政三歳次丙辰正月廿七日

 剣の中央に戒名、右に日本鍛冶宗匠八代目、左に安政三年(1856年)次丙辰正月27日。

 苔が巻いて読み取れませんが、台石には以下の門人名が彫られています(資料③)。
正面
   同 師 村 金古  源 包膳
   同大間々町 福光  藤原政春
   同 所   下山    信重
   同駒形駅  藤原    忠次
   同桐原村  在次    直吉
   高之巣邸  小林隼人

右側
    門人
   当国今井村 今井幸吉藤原定利
   同 中山村 増田  藤原包国
   同高日向村 高柳市郎右衛門藤原國武
   同小日向村 木村隼人藤原金散
   同 桐原村 深澤辰弥  貞次 

左側
 高 沼田新田町 今井蔵人藤原由永
 足 沼田沼須村 武井泰助藤原秀胤
    同門世話人
   当所    高野源之助寿彦
   同     堀口重五郎生宣
   同     柳佐次右衛門藤原金宗

八代目・九代目の代替わり(参考④)
 ・八代目伊賀守金道
   1827年(文政10年)伊賀守受領
   晩年京都誓願寺に出家、鉄扇と号す
   1856年(安政3年)渋川で客死
・九代目伊賀守金道
   八代目の弟
   1835年(天保6年)伊賀守受領
 八代目は伊賀守を名乗って8年後(1835年)には弟に譲り隠居、そして出家した事が推測されます。

考 察
 客死した場合、その地で荼毘にふして遺骨を本拠地に持ち帰るか、土葬してしばらく後改葬する事が考えられます。
 しかし、八代目は門人たちにより渋川に埋葬されました。きっと帰れない事情があったのでしょう。 
 門人世話人の渋川・高野源之助、堀口重五郎、柳佐治右衛門が中心となって、上野の門人に呼び掛けて造立した墓です。良珊寺の過去帳に「鉄翁庵主京都誓願寺弟子元宿源之助世話内ニ」とありますから(資料③)、墓碑に刻まれた世話人高野源之助寿彦の家に一定期間逗留していたものと考えられます。加えて、亡くなる前年にも群馬県に逗留しています。
 逗留の理由は代替わりして20年もたちますから、筆者は経済的理由と考えます。高野源之助をはじめとする世話人は困窮する八代目のために長逗留を迎え入れ、亡くなったら幕末頃に一般的だった円頂方柱・笠塔婆などではなく、大きくはないけれど刀匠のトップに相応しい小さいながらも意を尽くした墓石で供養したものと考えます。
 連名の16人の名前をみると長短様々です。「藤原○○」は八代目に骨を折って受領できた名なのでしょう。しかし、「福光○○藤原政春・下山○○□□信重」などに見られるように本名、受領名□□(多分藤原だけれど、確信が持てない)が空欄の門人が何人かいます。彼らは縁のある八代目とはすでに心理的距離があり積極的に協力したというよりは、名前貸しのように思われます。また、古くからの有力な門人・蟻川村の有川(蟻川)若狭守藤原政吉の末裔は天保期(1830~1844年)にはすでに沼田藩土岐家に召し抱えられ(資料①)、八代目客死時には門人から抜けていたと思われます。
 なお、八代目は「鉄翁庵主」という生前戒名を京都誓願寺(浄土宗西山深草派)から授与されていますが宗派が違うので、「一心院剣玉臥竜居士」として良珊寺(曹洞宗)で眠っているものと考えます。

参 考
① 群馬県立文書館HP:吾妻郡蟻川村有川家あて日本鍛冶宗匠保証状。2025年4月20日アクセス。
② 井上智勝:「日本鍛冶宗匠」三品伊賀守金道の免許状と鍛冶古法掟、大阪市歴史博物館研究紀要1号、P41‐48、2002年。
③ 土屋喜英:渋川市に在る日本鍛冶宗匠八代目の墓。群馬文化96、1968年。
④ 名刀幻想辞典HP:日本鍛冶宗匠。2025年4月20日アクセス。

関連(受領名)
・庶民にも官位・岸豊後守積保の墓:群馬県渋川市

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