~儒者の墓碑は戒名ではない~
例外はあるものの江戸時代の神主家は仏葬されました。神仏習合が数百年も続いてきましたから、そういうものだと思っていたのかも知れませんが、中には不満のある神官も少なくない数居たでしょう。また、隠れキリシタンの方は言うまでもありません。
儒者の場合は仏葬ではないと知り、大塚先儒墓所を訪れました。
大塚先儒墓所は人見道生の墓(1670年)が始まりで、200~300坪くらいの土地のあちらこちらに室鳩窓、木下順庵ら家族も含め64基の墓が建っており、そのほとんどが朱熹が「家礼」で定めた儒式墓に準じています。


室鳩巣夫婦の墓。向かって左側室鳩窓、右側室。墓碑は尖頭角柱(兜巾型)。大塚先儒墓所では夫婦の墓が並んで営まれています。

本名は室直清(1658‐1734年)、号が鳩巣です。徳川家宣、家継、吉宗の3代に仕えた儒者です。

右横に何か刻まれていますが読めません。

(室鳩巣先生妻故若森氏之墓)
江戸時代は夫婦別姓でした。若森家を代表して嫁入りしたという意味でしょう。江戸時代になると氏は家と混同して使われるようになります。

儒者の妻の墓は室鳩巣夫人の墓に見られるように「〇〇氏之墓」や10番のような「柴野弥十郎妻墓」、56番「古賀増妻小林孺人之墓」などとなっていて、個人名は彫られていません。
子供の場合、男子は51番「古賀鋭五子清之墓」、女児は52番「古賀鋭長女阿正墓」のように実名が彫られます。

(52番:江戸故掌教官二州藤先生墓)
尾藤二洲(1747 ~1813)は、伊予川之江の廻船業者の子。大阪で徂徠学を学んだが、頼春水や中井竹山と交わり、朱子学に転じた。昌平黌の儒官に登用され、幕府教学に尽力した(史跡訪問の日々HPより)そうです。
この尾藤二州の墓が分かりやすいのですが、土葬した後に円形に石を組み、

しかも崩れないように地中から組んでいます。
これから推測するに、寝棺ではなく座棺を埋めて、その上方に円形の石組を数段組んでいるようです。

石組の上には土饅頭があったと思われますが、現在はへこんでいます。

石塔の後方に円形の石組のない墓は、火葬墓なのか移転墓なのか分かりませんでした。儒教は火葬を嫌うので、多分移転墓なのでしょう。
考 察
実名墓である事について
寺請制度のあった江戸時代、国民は皆寺の檀家になり、戒名の刻まれた墓石(川原石を置いただけの墓もあったでしょうが)を建てました。
一方、親孝行や国家への忠義など現世の事を説く儒学者は来世まで説く仏教を軽蔑していました。大塚先儒墓所の墓碑が示すのは、江戸幕府の中枢、将軍の侍者となった儒者たちは儒葬をしてもお目こぼしがあったという事です。もともとキリシタン取り締まりのためにできた宗門人別改・寺請制度ですから、体制内の人物であればお目こぼしがあった(※※)という事のようです。
夫婦別姓について
江戸時代は家と家のつながりを重視したため実名がなく姓を重視した墓となり、女児の場合姓は父親と同じなので「古賀鋭長女阿正墓」のように実名入りの墓となっていると考えられます。
※ 大塚先儒墓所を見学するには、東京都から委託された吹上稲荷神社社務所で記帳して鍵を借りる必要があります。
※※ 国史大辞典第7巻に【「今の世には過分の異なることさへせねば禁制なきことにて」(病間朝語)、神葬・儒葬を特許あるいは黙許した】とあります。

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