貞治五年多宝塔・下植木赤城神社石造美術群(神社に仏塔):群馬県伊勢崎市

群馬県

概 要
 死穢を嫌う神社に稀に仏塔がある場合があります。それは以下の①~⑤のいずれかと考えられます。
① 神格化された個人の墓が祀られている(徳川家康の東照宮、菅原道真の大宰府天満宮)

② 神仏習合時代、別当寺にあったものが神社境内に残った(近戸神社、新海三社神社、下植木赤城神社観応二年宝塔)。
③ 土地整備などで神社境内に移転された(丁間稲荷神社)。
④ 神社の移転先の土地に既に仏塔があった(波志江愛宕神社)。
⑤ その他(下植木赤城神社貞治五年多宝塔)。
 そして、現在の神社はABいずれかの対応を取っています。
A:しめ縄を巡らす等の神道儀礼をおこなう(丁間稲荷神社、波志江愛宕神社)。
B:神道石造物と区別し、神道儀礼をおこなわない(近戸神社)。

 
 下植木赤城神社の古碑殿にある観応二年宝塔、延徳二年石幢と共に群馬県の重要文化財に指定された本稿貞治五年多宝塔は「奉造立殖木宮石塔事」、造立者に神官の名前が彫られている点で、つまり神主了解のもとに神社境内に仏塔が建てられている点で、「神社に仏塔」シリーズで最も異彩を放つ仏塔です。また、元の所在地が本殿近くの裏という点から①~⑤の⑤にあたると考えます。
 神社に仏塔の対応として造立当時はいざ知らず、現在下植木赤城神社では古碑殿にしめ縄を張る対応(A)をしています。

貞治五年塔(県指定文化財)

敬白
 奉造立殖木宮石塔事
原以宝塔是三世諸佛全躰一
切众生自證覺路也依之多宝
踊現之春朝四衆踏花坐宝塔坐中主之秋夕十界居月宮然則三所明神五衰三熱夢覺令成八相化儀矣  若爾今上皇帝御願円満将軍家御息災延命天下太平萬民豊楽特當当郷地頭家御心中所願成就社内安穏興隆佛法故也  兼又先妣法蓮成等正覺法界众生平等一如
 貞治五年丙午仲冬日
                   (向右面)
     思秀
     安法
   秦 清吉
   同 清才
   同 貞吉
   同 重吉
大工 清原光吉
                   (向左面)
    ○阿
  平 宗吉
  ○ ○○
  ○ ○○
神主  済貞
    泰貞
原(たず)ねおもんみれば、宝塔はこれ三世諸仏の全体なり。一切众生は、自(みずか)らに覚路(かくろ)を証するなり。これによって多宝踊現す。春の朝(あした)には四衆花坐(けざ)を踏む。宝塔坐中の主。秋のタベには十界(じゅっかい)月宮(がつきゅう)に居す。然らば則ち三所の明神、五衰三熱の夢さめ、八相(はっそう)化儀(けぎ)を成(じょう)ぜしむ。若ししからば今上皇帝の御願円満、将軍家御息災延命、天下太平万民豊楽なれ。特に当郷の地頭家御心中の所願成就、社内安穏、仏法興隆の故なり。兼ねて又、先批法蓮にも等正覚を成(じょう)じ、法界も众生も平等一如ならんことを。
(一部文字修正)





謹んで申す。
 植木宮に石塔を造立した事。
元来地中から湧き現れた塔から多宝如来が釈迦を讃めたたえ、塔中に招き入れて座らせ、釈迦如来・多宝如来の二仏が並んで座したと言われるのが宝塔で、両如来とも悟りの道を説くのである。そして過去・現在・未来の三世に在すもろもろの仏陀の全体を意味し、仏教を信じる事により生きとし生けるもの極楽への道が開かれ、春は花に包まれ、秋には満月の宮に安住できるのである。また、苦しみの悪夢から衆生救済のためにこの世に仏を遣わすのが植木宮に祭る赤城三所明神である。今上皇帝(後光厳天皇)の円満、将軍家(足利義詮)の息災、天下太平万民豊楽を願うのである。仏法興隆により、特に当郷の地頭家の願いが叶い、植木宮が安泰である事を願う。加えて、亡母法蓮が生死の迷いから悟りの境地に至る事、生きとし生けるものも等しく悟りの境地に導かれんことを。
 貞治五年ひのえうま仲冬の日
(私訳)

 全体的に黒みがかっています。
 基壇(高14.0cm、幅118.8cm)、基礎(高52.2cm、幅上84.0cm、下83.0cm)、球形の塔身(高41.0cm、幅上62.0cm、中70.5cm、下50.8cm)、凸字型一石造りの中台(高37.0、下幅55.0cm、上幅83.0cm)、笠(高60.5cm、下幅84.5cm)。
 相輪(22.5cm)は室町時代の後補のようです。

 この形式は全国的にも例を見ず異型宝塔とされています。
 しかし、考察で述べるように①②の位置が逆かも知れません。

考 察
異型宝塔について・・・全国的に類を見ない異型宝塔とされていますが、各地に二重石塔は散見され、群馬県の利根川流域と埼玉県北部には須弥壇型宝篋印塔・宝塔(二重式宝篋印塔・宝塔)と言われる仏塔が少なからず造立されています。つまり下から①第一塔身・中台(本件は須弥壇形をしていないので中台)・②第二塔身と考える事ができるのかも知れません。復元時に①②の位置を間違えた可能性も昔から指摘されています。
造立位置・・・下の赤城神社之景(明治35年の図、参考②)では観応二年宝塔は描かれています(赤□)が、貞治五年多宝塔は描かれていません。当時は倒壊して現在地(古碑殿)よりわずかに北東、神社本殿の北西背後の土中にありました(赤城神社之景赤丸、参考①)。
 貞治五年塔には「奉造立殖木宮石塔事」「神主済貞、泰貞」と彫られていますから、積極的ではないにしろ、境内に多宝塔造立を神主が認めているという事です。
 ただし、遺骨が貞治五年多宝塔付近に埋められていたかは不明です。通常の墓のように埋められていたかも知れませんが、顕彰塔の可能性の方が高いと考えます。

(赤城神社之景。赤四角=観応二年宝塔、赤丸=貞治五年多宝塔、赤星=延徳二年石幢推測地)

神社に仏塔・・・なぜ、神社境内に貞治五年多宝塔(1366年)を建てられたのか? 名前が刻まれている秦貞吉・秦清吉・母法蓮は、16年前に建てられた観応二宝塔(1351年)の造立者でもありました。
 貞治五年多宝塔の造立趣旨の大半は神仏習合について、天皇家・将軍家・地頭家・衆生の天下泰平・万民豊楽を祈念する内容で、神社本来の機能(天下泰平・万民豊楽を祈願する)にそぐう体裁を取っています。秦氏の本意は神仏に亡母法蓮を加護してもらうためと考えられますが、それは付け加えの形で述べられています。
 植木宮の大檀那である秦氏の願をむげにはでず神社は黙認します、という配慮が働いたのだろうと推測します。  
 概要欄の神社に仏塔がある場合①~⑤の⑤に当たると考えます。
 そして、造立当時はいざ知らず現在は古碑殿に移設され、死穢の穢れを浄化するためでしょう、古碑殿にしめ縄を張る対応(概要欄A)をしています。

参 考
①伊勢崎市:伊勢崎市史 通史編 1 (原始古代中世)、P748ー759、1987年。
②伊勢崎市の文化財と石碑:赤城神社貞治5年多宝塔、2025年3月26日アクセス。

関 連
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