概 要
関東型板碑に多い秩父青石(三波石)製で、南北朝時代の1369年(応安2年・北朝年号)に、妻が亡夫の仲山城主阿仁和直家13回忌に造立した、高さ高さ5.37m、幅約1.2m、厚さ約13cmの日本一の高さを誇る板碑です。
この板碑は夫の13回忌にさいし、妻が建てたものです。奈良時代には国家鎮護の仏教だったものが鎌倉時代以降葬儀に深くかかわるようになり、遅くとも南北朝期にはすでに回忌供養が行われていたことがこの塔から分かります。
野上下郷石塔婆
板碑という呼び名は江戸時代にできたもので、当時はどう呼ばれていたか分かりません。板石塔婆でも石塔婆でも良いのですが、本稿では一般に使われている板碑と呼びます。



權少都大檀那道観
比丘尼妙圓 行阿
應安二年巳酉十月 日敬白(巳酉・敬白は横2列小文小)
正家
正吉
結衆 三十五人
道観

参考①は「信仰利生鏡」という史料を基に、以下のように阿仁和家の歴史をまとめています(上掲地図も参照ください)。
仲山城は阿仁和直家の父基保が築き、諏訪神社を勧請し、上州金山新田氏に仕えますが、1335年(建武2年)没し、直家が城主になります。直家は那賀郡秋山城(現本庄市)の侍女と恋仲になったため秋山家と不仲となり攻められて1357年(延文2年)討ち死にしました。
奥方は縁ある能登の時国家へと逃れていきましたが、その後直家十三回忌に当たる1369年(応安2年)比久尼となった奥方(芳野御前・妙圓尼)と諸衆35人がこの地を訪れ供養塔(野上下郷石塔婆)を建立しました。
現地解説板では「城主阿仁和直家が落城の祭討死して、十三回忌の応安二年(1369)十月に、夫人の芳野御前(妙圓尼)が追善供養のために造立したものである」と、秋山氏には触れられていません。
考 察
秩父青石の板碑・・・野上下郷石塔婆のは薄く剝れる秩父青石(三波石・緑泥片岩)の特徴を生かした関東型板碑(秩父青石・板状・山型頂部・二条線など)と言われるものです。高さ高さ5.37m、幅約1.2mの大きな石にもかかわらず、厚さは13cmしかありません。補遺で述べますが、この地では民衆の墓石も昭和のはじめまで板碑状でした。
回忌供養・・・伝来以後奈良時代までは鎮護国家のための仏教だったものが、鎌倉時代以降葬儀と緊密に結びつくようになりました。
野上下郷石塔婆からこの地では遅くとも南北朝時代にはすでに十三回忌供養(本稿)が行われていたことが分かります。群馬県渋川市には同時代(1356年)の三十三回忌供養塔(石造笠卒塔婆)がありますから、南北朝時代には有力者の間では回忌供養が一般に行われていたと思われます。
阿仁和家の歴史・・・直家没後阿仁和家は仲山城から落ち伸びて、13回忌に戻って板碑を造立したという事になりますが、それは考えにくいように思います。秋山家かそれに代わる勢力がこの地を治めている状況下で、旧城主ゆかりの一行(道観含め40人・当然武装しています)がやって来て旧城主の巨大な供養塔を建てられたなら、領地の不安定化を招く恐れがありますから、許す城主は居ないと思われます。
ですから、町の解説板では伝承には触れられていません。ただし、「落城した」と述べているので、落城はあったのかも知れません。芳野御前が逃れ先から戻った云々についても書かれていません。
根拠の薄い独断ですが、以下のように考えます。
落城後、上州金山新田氏(岩松氏)の支援を受け城を奪還した正家(か正吉)が城主となり、再び領地を統治し、芳野御前は直家の菩提を弔うために出家(諏訪神社の別当寺とかに)し、妙圓と名乗りました。妙圓が発願し、正家・正吉の兄弟のもと同盟を結ぶ地域の有力者35人と行阿、そして大檀那の道観が資金を拠出して造立したと考えたいと思います。
なお、以下2点付け加えます。
阿仁和基保が上州金山新田氏(岩松氏)に仕えた件について、岩松氏は室町幕府成立後は足利家の一門としてふるまっています。板碑には北朝方年号(応安)が使われていますから、齟齬はありません。
秋山家の侍女と恋仲となったというのは、鎌倉・南北朝時代は一夫多妻制で政略婚が行われていますから、考えにくいと思います。
参 考
① 埼玉県の神社HP:諏訪神社
② 千々和到:板碑と石塔の祈り、山川出版社、2007年。
補 遺
野上下郷石塔婆があるこの地区は秩父青石の産地で、道端の石碑や墓石、石垣にも多様されているようです。



右:昭和3年の墓石。石積みは秩父青石。

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