石造不動明王立像・宮田のお不動様(国重文・不動寺):群馬県渋川市

群馬県

概 要
 鎌倉中期の石造不動明王像で、技巧の素晴らしさに加え、造立年・願主・仏師・造立趣旨が分かる点で、貴重な石造物です。群馬県みどり市の天神山産の凝灰岩を使い、新田氏一族で高崎市榛名町に勢力を持つ里見氏義が定朝流の仏師に1251年(建長3年)に造らせ、渋川市赤城町の山(現在の不動山)の中腹にある岩窟に安置された石造不動明王立像です。

石造不動明王立像

(現物は撮影禁止なので、群馬県立歴史博物館展示のレプリカです)
 渋川市赤城町宮田の不動山の岩窟に安置され、岩窟を塞ぐように無住の不動寺が建てられています。不動寺は昭和初期に開創されたもので、それ以前に寺があったかは不明です。

 定朝流の仏師院隆・院快によって造立されました。平等院鳳凰堂の阿弥陀仏を造った定朝の流れは慶派と院派に分かれますが、院派は平安時代の伝統を守った流派で院隆・院快は院派の仏師です。左目をすがめ唇の上下に牙を出す相貌、巻き髪などに平安時代の形式が見られます。
 顎・眼球周辺に黒漆の残存が見られます。

 胴部・手にも黒漆の残存が見られます。
 全身像は高さ166cm胴回り157cmで、胴で上下に分かれます。上半身下面・下半身上面・台座下面に墨書銘文があり、下半身上面の墨書は読み取り可能でした。また、下半身上面中央に径10cm、深さ15cmの黒漆塗り円筒状空洞があり、中にはいずれも残欠ですが紙本金剛界種子曼荼羅、紙本倶利伽羅竜、いろは歌1紙がありました。

原文
  仏師定調流 造之  僧院隆(花押)
          僧院快(花押)
予倩望此巖堀定為古聖跡歟以是所発佛法
興隆之願也夫以釈迦如来成道之砌現不動色
身而攘障擬魔王法喜菩薩修行之岩安明王
尊像而利末代衆生因之尋彼前蹤為奉持大
聖令修営堀中之処建長三年六月
十八日行法之器       具掘出之是即
相催宿習所至        丹誠也仍弥抽
懇志同二十六日終功     所奉安置忿怒
形像也抑所仰者断悪修善之誓所憑者生生加護
之願也速除魔縁災難必成現當所求為乃至
法界平等利益也興隆之志趣大概如斯矣
 建長三年大歳辛亥七月八日願主掃部権助源朝臣氏義(花押)
読み下し文(角田恵重氏による)
  仏師定調流 造之  僧院隆(花押)
          僧院快(花押)
予、倩(つらつら)この岩窟を望むに、定めて古の聖跡たる歟。是を以て仏法興隆の願を発する所也。夫以(おもんみ)れば釈迦如来成道の砌、不動色身に現じて障擬魔王を攘(はら)ひ、法喜菩薩修行の岩に明王の尊像を安んじて末代の衆生を利す。之に因って彼の前蹤(ぜんしょう)を尋ねて、大聖を奉持せんが為に掘(窟)中の所を修栄せしむ。建長三年六月十八日行法の器具之を掘り出せり。是即ち宿習を相催せる丹誠の至る所也。仍弥(よっていよいよ)懇志を抽(ぬきん)で同月二十六日功を終る。安置し奉る所の忿怒(ふんぬ)の形像也。抑(そもそも)仰ぐ所は断悪修善の誓、憑(たの)む所は生生加護の願也。速やかに魔縁災難を除き、必ず現当の所求(しょぐ)を成じ、乃至は法界平等の利益の為也。隆興の志趣大概斯の如し。
  建長三年大歳辛亥七月八日願主掃部権助源朝臣氏義(花押)
私訳(誤り・過不足があると思われますが、大意は反れていない事を願います)
  定調流仏師の僧院隆・院快が造立した。
私が昔からの神聖さを宿すこの岸窟を眺め、ここに不動明王像を安置する事に決めた。この不動明王像造立により、仏法の益々の隆盛を願うのである。考えてみれば釈迦如来が悟りを開いた時は、不動如来は煩悩という汚泥の中に身を投じて体中が黒くなってでも 障擬魔王を追い払い衆生を救済しようとした。修験道の開祖役小角(えんのおずの)が金剛山に法喜菩薩を安置したように、この岩窟に末代まで衆生を守っていただくために不動明王を私は安置するのだ。その不動明王像は建長三年六月十八日丹精込めて彫り始め、同月二十六日に完成した。安置したのは憤怒の形相をした不動明王立像である。この像の前で衆生が悪を断ち善を積むことを誓い、現世も来世も仏のご加護を願う事である。そうすれば速やかに不幸災難を取り除き、現世も来世も願いは叶うのである。また、自らの幸福を祈るだけでなく、他の人の幸福をも祈る功徳を積めば、戦乱や疫病のない生きとし生けるものすべてに幸福がもたらされるのである。不動明王立像をこの洞窟にお祭りする趣旨は以上のような為である。
 1251年(建長三年)7月8日願主掃部権助源朝臣氏義

※ 現在は年に1度の例大祭(1月28日)に御開帳されます(撮影不可)。

考 察
 石造不動明王立像は鎌倉時代の造立ですが、鎌倉彫刻を代表する慶派に属する仏師の作品ではなく、院隆・院快に院がつくことから平安時代後期に京文化の主流を占め鎌倉時代も京都を中心に活動を続けていた院派という集団に属していた仏師の作です。しかも石工ではなく、木造仏師が彫った作品と考えられます。
 像の所々に黒漆の跡が残存し、当時の不動明王像は身体全体に黒漆が塗られていたことが想像できます。衣服も黒かったのか別の色が施されていたのか気になる所です。
 高崎市榛名町(里見という小字が残っています)に勢力を持つ里見氏惣領里見義氏は新田氏祖義重の4代後の子孫ですが、この人物がなぜ渋川市赤城町宮田に造立できたのかは不明です。里見氏と友好関係にある氏族(同じ新田氏の出自であるとか)、或いは同族ではないにしろ里見氏の協力を得るために造立を許したという事でしょうか? 里見義氏から見ればなぜ本貫地を離れて造立したのか? 造立趣旨をその通りに解釈すれば煩悩・戦乱・疫病などで苦しむ衆生を救済するための像ですが、里見氏の権勢を誇示するために領地外に建てたとも考えられそうです。全て空想の域を出ませんが。
  

参 考
館山市立博物館HP:さとみ物語第1章里見氏のルーツをたどる「鎌倉御家人里見氏」

 2025年1月28日の例大祭の様子。普段は無住の小さな寺ですが、年に一度の例大祭は大勢の人でにぎわいます。石造不動明王立像は正面の岩窟の左側面に右向きに安置されています。
 像は撮影禁止です。

補 遺
 宮田不動寺・宮田神社の境内に鎌倉時代の石灯籠があります。1443年(嘉吉3年)に南光院の修験僧が熊野神社に寄進した灯篭で、熊野神社が赤城神社に合祀される時にこの地に移転されました。

            大工道○
     癸
嘉吉三年  八月吉祥日
     亥  三嶋山
            南 光 院

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