古事記の国譲り神話に繋がる古い歴史を持つ諏訪大社上社。その諏訪大社上社の大祝(おおほうり:生き神様)は明治になって廃止されるまで諏訪家が世襲してきました。その諏訪家の墓は茅野市立神長官守矢資料館のすぐ背後にあります。
国譲り神話
「古事記」神話では天照大神(アマテラスオオミカミ)の使い建御雷神(タケイカズチノカミ)と大国主命の子建御名方神(タケミナカタノカミ)が力くらべして建御名方神が負け、大国主命は高天原に届くほどの屋根が高い神殿(出雲大社)を築くことを条件に国譲りに同意しました。その時建御名方神は信濃国諏訪湖まで逃れました。
伝承では建御名方神の子孫が諏方氏とされています。また、鎌倉時代には北条氏と近しい家臣となり、信濃の武士団の中心となりました。武田信玄の四男勝頼は、一門の高遠諏訪家に養子に入り諏訪四郎勝頼を名乗っていましたが、信玄死後武田家に戻り武田勝頼となりました。江戸時代には上社大祝家と高島藩主諏訪家に分かれました。


(黄色〇が大祝諏訪氏墓所)
諏訪大社上社には大祝を補佐する五官がありその筆頭が神長官です。もともと神長官守矢家の墓だったところですが、守矢家の墓を130m程離れた熊野堂(旧高部村共同墓地)に追いやって大祝諏訪家の墓としています。
大祝諏訪家と神長官守矢家には確執がありました。
大祝諏訪家の墓は以下のように「院殿つきの仏式戒名墓」です。

透鱗院殿前侍中貫首綱宗頼紀大〇・安永九年(1780年)

雲龍院殿前侍中貫首〇〇〇・文政八年(1825年)

月宮院殿園融宝鏡大〇・天保十一年(1840年)
考 察
諏訪大社上社筆頭神官大祝諏訪家でも、江戸時代は戒名墓でした。
飛鳥時代に蘇我氏(仏教)と物部氏(神道)の勢力争いがあったものの、奈良時代以降神仏は次第に緊密化し、平安時代には神前で読経したり神社内に寺(神宮寺・別当寺など)がある、寺の中に神社がある状態、いわゆる神仏習合となりその時代が江戸時代末まで続きました。江戸時代の諏訪大社上社には法華寺(現存)と普賢神変山神宮寺がありました。
また、神道は穢れを嫌う一方、仏教は700年に道昭、702年に推古天皇が火葬によって埋葬された歴史があります。神官でも仏教式埋葬は自然な事だと思っていたと思われます。
その中で、江戸時代に寺請制度ができ、国民は全員いずれかの寺の檀家にならなければなりません。それは神官であろうとも同じです。
そんな流れがありますから、諏訪大社上社大祝であろうとも仏教式の墓が建てられたという事だと思います。
しかし、例外もあります。それは同じ諏訪大社神長官守矢家の墓です。諏訪大社上社のトップが仏式墓、NO.2が神式墓という不思議な関係になっています。
関 連(②③④⑤⑥は神葬墓)
① 諏訪大社神官 神長官守矢家の墓:長野県茅野市
② 鵜戸神宮・初代宮司の墓:宮崎県日南市
③ 保科正之の墓(土津神社:国重文):福島県猪苗代町
④ 会津藩松平家墓所(院内御廟:国重文):福島県会津若松市
⑤ 鶴岡八幡宮大伴神主家の墓(浄光明寺):神奈川県鎌倉市
⑥ 鶴岡八幡宮初代宮司筥崎博尹の墓(寿福寺):神奈川県鎌倉市

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