寺請制度のあった江戸時代では人々は全て仏教式で葬られました。
ところが例外があります。隠れキリシタン墓は当然の例外としても、それ以外に上級儒者の墓、特定の神官の墓です。
その特定神官の墓を挙げます。
古事記の国譲り神話に繋がる古い歴史を持つ諏訪大社上社。生き神様である大祝(おおほうり)は、明治に廃止になるまで代々諏訪家が世襲しました。大祝を補佐する五官の筆頭に神長官があり、代々守矢家が世襲しました。
諏訪大社上社ではトップの大祝が仏式墓、NO.2神長官が神式墓という不思議な関係になっています。
縄文の神として洩矢神(守矢氏)が治めてきた諏訪湖地方に大和政権との権力闘争(大国主の国譲り神話)に負けた建御名方神(後の諏訪氏)が逃れ来て、守矢氏を負かして諏訪大社上社の大祝になり、守矢氏は神長官になったという言い伝えがあります。
ただし、生き神様である大祝になるためには諏訪家の男児で、神長官守矢家によって神降ろしされた子である事が必要でした。
写真①

文化十四年〇丑年(1817年。〇は判読不能文字)
神長官守矢氏神朝臣實綿霊神之墓
八月十四日卒
(縦書き3行を横書きで示しました。以下の墓標も同じ)
寺請制度があり神官であろうとも寺の檀家となり仏式墓に葬られた江戸時代に、例外的に見られる神式墓です。
「神長官である守矢家の氏神、実綿霊神」・・・「霊神」は吉田家(京都吉田神社)に願い出て許可されれば号することができました(※1)。

實綿霊神は上の系図では「実綿」と同じです。
写真②

天保三年〇〇(1832年。〇は判読不能文字)
守矢廣一郎之墓
霊神と彫られていないのは守矢家当主ではなかった方という事を示しているのでしょう。上掲の守矢家系図には載っていない方です。
写真③

○○〇〇〇(5~6字彫られていますが判読できません)
玉巌〇實居士
同級
霊聞○○大師
これは墓石の形から上の「天保三年守矢廣一郎之墓」より古そうですが年代が判りません。仏式墓です。
写真④

天保八年(1837年)
可我姫神霊之墓
このように読めました。女性なので、上の系図には記載されていません。立派な自然石に彫られているという事は当主の奥方か娘というようなことなのでしょうか。
文字がかろうじて読めたのは以上の4基でした。
仏教墓も混じっていますが、寺請制度があった時代に神長官守矢家は神道墓を建てていたという事です。
考 察
江戸時代には寺請制度に加え、諏訪大社の神宮寺は諏訪大社をしのぐほど栄えていたそうです。その中で諏訪大社の生き神様、大祝諏訪家でさえ墓は全て仏式でした。
江戸後期に離壇運動がおこり、特定神官(宮司と嫡子)は神葬祭・神式墓が許されるようになりました(※2)。
写真①・・・諏訪大社上社では神長官諏訪家が宮司とみなされ神葬祭を行う許可が出たという事でと思われます。
写真②・・・嫡子にあたるので、仏式墓でなくても許可されたという事でしょうか。
写真③・・・残念ながら年代が読み取れませんでしたが、舟形墓石は江戸時代末には1800年代には見られなくなります。特定神官に神葬祭が許される前の墓と考えられます。
写真④・・・女性の神式墓。吉田神社が神葬祭を許可したのはあくまで「宮司と嫡子」です。女性には許可が下りなかったと思われますが、江戸時代末で寺請制度が緩んで、女性の神葬祭も黙認されたのかも知れません。それだから「霊神」ではなく「神霊」と彫ったのでしょう。
神長官守矢家に神葬祭が認められ大祝諏訪家には認められなかった所に、諏訪大社上社の権力関係が認められると思います。鎌倉幕府の宮将軍と執権北条家の関係を思わせます。
※1 幕朝故事談(1789‐1801か)「大名、父祖を神に祭る事は、吉田家へ願へば、霊神と号する事なり」
※2 WEB浄土宗大辞典に「神葬祭の本格的な展開としては、近世後期におきた神職らによる離檀運動をあげるべきであろう。あまり知られていないが、近世期においては神職であっても寺院に属することが義務づけられていた。そこで、寺院からの離檀を目的に神道人自ら幕府に働きかけたのが離檀運動である。結果的には、吉田家の免状を有した神職ならびに嫡子に限って神葬祭を行うことが寺社奉行によって許可された。」
関 連(②③④⑤⑥は神葬墓)
① 諏訪大社神官 大祝諏訪家の墓:長野県茅野市
② 鵜戸神宮・初代宮司の墓:宮崎県日南市
③ 保科正之の墓(土津神社:国重文):福島県猪苗代町
④ 会津藩松平家墓所(院内御廟:国重文):福島県会津若松市
⑤ 鶴岡八幡宮大伴神主家の墓(浄光明寺):神奈川県鎌倉市
⑥ 鶴岡八幡宮初代宮司筥崎博尹の墓(寿福寺):神奈川県鎌倉市

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