菅谷大壱寺の宝塔:群馬県高崎市

群馬県

 菅谷大壱寺(高崎市菅谷町)は807年(大同二年)開山で、中世武将が尊崇する息津宮大明神、(現 瀧宮神社)の別当寺でした。長野業政長男業吉が大壱寺に葬られたという伝承があります。その伝承は武田信玄により箕輪城(城主業盛)が攻め落とされた時(1566年・永禄9年)菅谷城の吉業も討死した、川越夜戦(1546年・天文5年)の戦傷により没し、大壱寺に葬られたという2通りの伝承があります。

 群馬県内にある「年号あり・完形」の宝塔は十数基しかないのですが、その大壱寺境内にそのうちの3基(市指定文化財)にあたります。南北朝時代の宝塔です。

 道路工事の関係で宝塔3基と石殿がここにまとめられました。

 解説板には、以下のように年記銘が示されています。
  ・康永2年(1343年)
  ・永和9年(1383年)
  ・明徳4年(1393年)

 南北朝時代(1336~1392年)当時の宝塔です。解説文に「向かって右から」とか基準が示されていれば良いのですが。
 向かって左から

 文字が読めません。
 中央は

 明徳4年(1393年)と彫られています。3基の中では一番新しい宝塔です。
 右端は

 永和と彫られているように思いますが、康永と読めなくもありません。
 不確かなので、形状比較も。

 中央が最も新しい明徳4年(1393年)の宝塔。

考 察
 左右どちらが古いか? 笠の反りや張り、塔身の形が右端の方が中央に似ているので、右端が永和9年(1383年)の宝塔、左端が康永2年(1343年)の一番古い宝塔と推測します。
 文献的に長野氏が登場するのは1477年(文明9年)の長尾景春の乱に伴ってですから長野氏関連とは考えにくく、関東管領上杉氏守護代白井長尾氏か長尾氏に仕える地侍が建てた供養塔と思われます。

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