概 要
沼田藩真田家は初代真田信之・2代信吉・3代熊之助・4代信政・5代伊賀守信利(信直)と続き、信利の代で改易されました。信之は初代松代藩主、信政も2代松代藩主になり、墓所は松代にあります。したがって沼田市にある藩主の墓は2代信吉(天桂寺)・3代熊之助(伝承。みなかみ町新巻)・5代信利(迦葉山弥勒寺に供養塔)となります。また、藩主の母親としては信政母小松姫(正覚寺)、信利母慶寿院(妙光寺)が沼田市内にあります。
本稿では信吉・熊之助・信利・小松姫・慶寿院の墓を紹介します。
2代信吉の墓(天桂寺:市文化財)



真田信之の長男で、母親は清音院殿(信之いとこ・真田信綱娘)説と小松姫(本多忠勝娘)説がありますが、次代が降るに従い真田家の書類では母親は小松姫と記されるようになりました。実際は清音院殿のようです。関ケ原の戦いには信之に代わり弟信政(母小松姫)と兄弟で参戦しました。
信之が沼田から上田に移るに伴い沼田藩を継承(上田藩支藩)しました。

信之は戦乱で荒廃した沼田領復興のため、水利に恵まれない沼田大地の用水開発(生活用水・灌漑用水)に努力しました。信吉もそれを引き継ぎますが若くして亡くなりました(1635年寛永11年:40歳)。
戒名:天桂院殿前河州大守月岫浄珊大居士
3代熊之助の墓(伝承。みなか町新巻)

2代藩主信吉(父)の死去にともない4歳で沼田城主となりました。幼少のため、叔父の信政が後見人に就いて政務を行ないました。
1638年(寛永15年)に7才で江戸で亡くなり、遺骸は沼田迦葉山へ送られ葬儀が行われ、この地(みなかみ町新巻)に葬られたと伝わります。
戒名:一陽院殿梅心玄香童子

菩提の為に熊之助の戒名から玄香院と名付けられた寺が立てらたそうです。無縫塔はその名残でしょうか。

今は側に玄光院薬師如来堂が立っています。
※真田熊之助の墓は云い伝えによるもので、みなかみ町の調査では墓でない可能性が高いとされています。
5代信利の供養塔(迦葉山弥勒寺)


沼田藩4代藩主信政(信利叔父)が2代松代藩主となって去って5代沼田藩主となりましたが、信政が着任2年後に亡くなると、2歳の幸道(信政5男)との間で松代藩藩主の座を巡り幕府が仲裁する騒動になり、松代藩主は幸道、沼田藩は信利と裁定され、松代藩の干渉がない完全に独立した沼田藩となりました。
両国橋改修の木材を請け負い時、台風による利根川の氾濫で用材が流失し納入日に間に合わなかったことで改易奥平家預かり、宇都宮で亡くなりました(54歳)。

(弥勒寺龍願閣)
真田伊賀守信利(信直)の供養塔が迦葉山弥勒寺の裏山の歴代住職墓塔の一角にあります。墓は東京駒込の吉祥寺にあります(参考①)。
小松姫の墓
信之の正室(本多忠勝娘)で、信政の母親。関ヶ原戦いのきっかけとなる上杉征伐のおり、犬伏の別れ(栃木県佐野市)で西軍につくことにした昌幸・信繁(幸村)は、上田に帰る途中沼田城に寄り孫に会いたいと伝えますが留守を守る小松姫は開戦準備の上、城門を開けませんでした。これを見た昌幸は「弓取の妻は誰もかくこそ有べけれ」と称賛した逸話が伝わります。
小松姫は城内には招き入れませんでしたが、城外で面会させたと伝わります。この時の孫は信吉か信政、或いは両名と考えられます。信吉は清音院殿の子かも知れませんが。


1620年小松姫は病気療養のため江戸屋敷から草津温泉へ向かう途中鴻巣で亡くなり、同所で火葬のうえ、勝願寺(鴻巣)、正覚寺、芳泉寺(上田)に分骨埋葬されました。
戒名:大蓮院殿英誉皓月大禅定尼
信利母慶寿院の墓


2代藩主信吉側室、5代信利生母。自ら開基となり寛文7年(1667)に本隆寺を改築して慶寿山妙光寺を開きました。
戒名:慶寿院殿妙久日栄大姉尊位
考 察
ここでは沼田藩真田家(特に伊賀守信利)の再評価を試みます。
初代藩主信之以降5代91年間、沼田は真田家の領地でした。しかし群馬県民にとって沼田真田家は良いイメージがありませんでした。それは、伊賀守信利改易に加え、明治期に創られた講談話磔茂左エ門や史料がなく噂話の域を出ない水牢伝承のためです。
最近沼田真田家の用水開削の研究が進み、信幸から伊賀守信利まで5代91年間の沼田藩統治の間一貫して生活用水・灌漑用水のための開削を行いその数は100本に及ぶこと、特に泰平の世になった4代信政・5代信利によって特に多く開削された事が判っています。

(参考②より)
表を見ると、信幸~信政は沼田城周辺から利根郡周辺部の用水開削に注力し、信利は利根郡に加え吾妻郡まで開発している事が判ります。
その結果、
信之時代・・・3万石
信政時代・・・4万2千石(1643年寛永20年)
信利時代・・・14万4千石(1662年)
改易後検地・・・6万5千石(1784年)
となります。信利は松代藩と張り合うため無理して石高を高く見せた(14万4千石)のは事実でしょうが、少なくも信利時代に6万5千石程度まで石高が上がっている事が判ります。
また、領民のために飢饉で奔走する信利の姿も残っています。


改易されたのは事実ですから悪政があったのは事実でしょうが、善政を行っていたことも事実です。信利は亡くなるまで赦免されませんでしたが、長男信音は後に1000石の旗本として復権していることもそれを思わせます。
参 考
①沼田市教育委員会:真田氏時代の沼田城下町文化財散策ガイド
②真田用水研究会:沼田藩真田用水群の魅力、上毛新聞社、2020年。

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