概 要
橘清重が若くして亡くなった我が子のために元治元年(1240年)に建てた供養塔。阿弥陀如来を表したものでは群馬県内最古の石造物(板碑)です。最古の板碑は嘉禄三年(1227年)の阿弥陀三尊来迎陽刻像板碑(埼玉県越谷市)にありますが形式がよく似て、鎌倉時代の板碑の原形を持つものです。
造立者の名は彫られていますが、被供養者野子供の戒名が彫られていません。鎌倉初期には有力者の間でも成人前の子に死後戒名をつける習慣が無かったのかも知れません。
小島田の供養塔(市文化財)

風化防止のため建屋に収まっていますが、鍵はかかっておらず開けて見学可能です。ただし、触れたりせず、見学後は戸を閉めてください。

高さ124cmの将棋駒のような形の供養塔で、

風化が激しく阿弥陀如来坐像も左右の種字もはっきりしませんが、左には勢至菩薩の種子「サク」、右には観音菩薩の種子「サ」が彫られています。

三尊像の下部には、以下の文面が彫られています。
| 右志者 為過去子息小児幽霊 出離生死 往生極楽 証大菩提也 仁治元年 十二月十七日 橘清重敬白 | 幼くして亡くなってしまった我が子の霊魂は、出離生死(しゅつりしょうじ:悟りを開いて涅槃)の境地に入った。証大菩提(無上の悟り)を開いたに違いない。 仁治元年(1240年)12月17日。 橘清重が謹んでそう申し上げ、この供養塔を建立した。 |
考 察
この板碑型供養塔は小島田の伝承によると、当時チョウメン寺という寺の大門があったところにこの供養碑があります(現在の所在地名「前橋市小島田町大門跡530」にも小字として残っています)。チョウメン寺ゆかりの有力者である橘清重が大門の側に幼くして亡くなった我が子のために建てた供養塔と推測されます。
死後戒名は平安時代末期に使われ出していますが、一般庶民にまで広まったのは江戸時代になってからです。
この供養塔で注目したいのは、子息の名や戒名が記されていない事です。江戸時代になると○○嬰子、○○亥子、○○童子などと彫られますが、それほど死後戒名が一般的ではなかった鎌倉初期には有力者の間でも成人前の子に死後戒名をつける習慣が無かったのかも知れません。
なお、日本最古の阿弥陀三尊来迎陽刻像板碑(埼玉県越谷市)と酷似しており、武蔵武士団とかかわりがあったものと思われます。
参 考
上大島町ホームページ(前橋市上大島自治会):永明地区の中世(その2)。2025年1月25日アクセス。
前橋市教育委員会:仁治の板碑、文化財調査報告書第4集、P6、1974年。2025年1月25日アクセス。

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