金井沢碑・古代の家族関係や信仰が分かる(上野三碑・国特別史跡):群馬県高崎市

平安時代まで

概 要
 山上碑・多胡碑と並び上野三古である金井沢碑からは、三家(みやけ)氏を名乗る一族の古代の家族関係(子供は父方の氏を名乗り、母親と共に母親方の家族と暮らす)・8世紀前半に定められた郷里制の実態が読み取れます。また、山上碑と共に仏教の広まりが分かる碑でもあります。

碑 文

 輝石安山岩の自然石に楷書体で9行112文字が丸彫りされています。ほぼ日本語の語順で漢字が彫られています。

 碑文はかなり風化して、読みづらくなっています。

上野國羣馬郡下賛郷高田里
三家子○為七世父母現在父母
現在侍家刀自他田君目頬刀自又兒加
那刀自孫物部君午足次◆刀自次乙◆
刀自合六口又知識所結人三家毛人
次知万呂鍛師礒マ君身麻呂合三口
如是知識結而天地誓願奉仕
石文
  神亀三年丙寅二月廿九日

     ◆は馬偏に爪の1文字でヒヅメ
上野国群馬郡下賛郷高田里の
三家の子○、七世父母現・在父母のために
現に在し侍る家刀自・他田君目頬刀自、又児なる加那刀自・孫の物部君午足、次に蹄刀自次に乙蹄刀自、合わせて六口、又知識結う所の人三宅毛人
次に知万呂・鍛師の磯部君身麻呂、合わせて三口
是の如く知識結いて、天地に誓願して仕え奉る
石文
  神亀三年丙寅二月二十九日
     ◆のヒヅメは蹄として表記

現代語訳
 上野の国群馬郡下賛郷高田里(くるまのこおりしもさぬのさとたかだのこざと)に住む三家(みやけ)子○が、先祖と父母のために、現在妻(家刀自)の立場にある他田君目頬刀自(おさだのきみめづらとじ)、その子の加那刀自、孫の物部午足(もののべのうまたり)、次の蹄刀自、次の若蹄刀自(おとひづめとじ)の合わせて6人、また仏の教えで結ばれた人たちの、三家毛人(えみし)、次の知万呂(ちまろ)、鍛師(かぬち)の磯部君身麻呂(いそべのきみみまろ)の合わせて3人、このように団結して天地に誓い、仏に仕える事を誓った石文である。
   726年2月29日

 高崎市の佐野地区に住む三家子○が、妻他田目頬・その子の三家加那、孫の物部午足、そして物部蹄、物部乙蹄の6人、仏教の教えのもとに結ばれた三家毛人・三家知万呂・刀工の磯部身麻呂の3人が力を合わせ、仏に仕えることを誓ったためにこの石文を立てたのである。

仏教の浸透

為七世父母・・・7代の父母で、祖先を表しています。
知識結・・・知識を結ぶというのは、仏に帰依して結縁することを意味しています。家族だけではな三家毛人・三家知万呂・磯部身麻呂も結縁しています。45年前に山上碑(681年)を立てた放光寺僧・長利も三家一族です。長利は出家し妻帯していなかったと思われますが、金井沢碑を立てた三家子○の1~2世代前にあたります。

三家一族の家族関係

(参考②より)

 この碑文から奈良時代頃の家族関係が分かります。三家子○・他田目頬夫婦とその子三家加那、碑文には登場しない物部某との間に授かった三家加那の子供3人(物部午足・物部蹄・物部若蹄)が参加しています。子供3人は物部の氏にも拘わらず母方の三家の氏の行事に参加しています。そして夫の物部某はその行事には参加していません。加えて、家族ではないのですが仏教で力を合わせると誓った三家毛人・三家知万呂・磯部身麻呂の3人が参加しています。
 山上碑に登場した三家の氏の子孫が金井沢碑の三家子○と考えられています。
 現在の大和王権とつながりを持ち高崎市周辺を支配していた三宅氏は群馬県南西部を支配していた物部氏と婚姻関係を結んでいたことが分かります。

郷里制の一例
 碑文の冒頭に「上野國羣馬郡下賛郷高田里」と記されています。
 霊亀~天平年間にかけての20数年間郷里制が敷かれていましたが、金井沢碑が立てられた726年(神亀3年)は丁度この期間に当たり、郷里制の実例を示す史料でもあります。

 前沢(参考①)よると、金井沢の碑は近くの別の場所に立っていたが山崩れにより金井沢に崩落したものを現在地に運び上げた、ある村人の家のそばにあって碑面を洗濯石として使っていたがその一家が絶えたため碑の祟りを恐れて現在地に運び上げたなどの言い伝えがあるそうです。

参 考
① 前沢和之:古代東国の石碑、山川出版社、2008年。
② 松田猛:上野三碑、みやま文庫、2017年。
② 高崎市教育委員会パンフレット:上野三碑。

関連(上野三碑)
山上碑・日本最古の完形碑(上野三碑・国特別史跡):群馬県高崎市
多胡碑・多胡郡建郡の記念碑(上野三碑・国特別史跡):群馬県高崎市

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