概 要
死穢を嫌う神社に稀に仏塔がある場合があります。それは以下の①~⑤のいずれかと考えられます。
① 神格化された個人の墓が祀られている(徳川家康の東照宮、菅原道真の大宰府天満宮)
② 神仏習合時代、別当寺にあったものが神社境内に残った(近戸神社、新海三社神社、下植木赤城神社観応二年宝塔)。
③ 土地整備などで神社境内に移転された(丁間稲荷神社)。
④ 神社の移転先の土地に既に仏塔があった(波志江愛宕神社)。
⑤ その他(下植木赤城神社貞治五年多宝塔)。
そして、現在の神社はABいずれかの対応を取っています。
A:しめ縄を巡らす等の神道儀礼をおこなう(丁間稲荷神社、波志江愛宕神社)。
B:神道石造物と区別し、神道儀礼をおこなわない(近戸神社)。
本稿は笠薬師塔婆に対する丁間稲荷神社の対応は③Aに該当すると考えます。
丁間稲荷神社

説明板中の【秋元長朝が天狗岩用水開削にあたり】について。
総社藩主秋元長朝は、平地故に高低差を利用した引水には隣接の白井藩から用水を開削する必要があり、白井藩の了解を得て1602年小藩にとって莫大な費用負担になる難工事を開始しました。工事に参加した者には3年間年貢を免除し、1604年に完成させました(天狗岩用水)。
その後隣接の幕府代官領でも開削が進められ(代官掘)、前橋・高崎・玉村地域に飛躍的な農業生産をもたらしました。
2代奏朝は1633年移封となり以後秋元家が総社に戻ることはありませんでしたが、総社の農民は秋元長朝の功績を忘れることなく、天狗岩用水完成後172年もたっても名君秋元長朝を忘れず力田遺愛碑を立てています(ポイントは有力者が立てたのではなく、農民が立てた事です)。
その天狗岩用水開削の起点になったのが丁間稲荷神社です。
笠薬師塔婆(市文化財)

紀年銘はありませんが丁間稲荷神社の笠薬師塔婆は平安時代末に造られたと考えられる、県内最古級の仏塔です。塔身には供物を納める奉籠孔(ほうこうろう)という穴がそこら中に空いています。
強風で紙垂がちぎれてしまっていますが柱間にはしめ縄が渡されています。冒頭の写真のように正月には覆い屋に門松が飾られます。

写りがよろしくないので前橋市教育委員会の解説文を写します。
【現在地より300m北の笠薬師とよばれた場所から、道路建設のため、今の位置に移された。県内最古の様式をもち、笠の部分は、寄棟本瓦葺きという形式を表現している。塔身の4つの面には釈迦、薬師、弥勒、阿弥陀が、仏像の背面から発する光を炎のように表した二重の火炎光背とともに彫られている。】

正面。

南面。

西面。

北面。
考 察
本稿の笠薬師塔婆は墓石では無いようですが、塔婆とはストゥーパ(仏陀や阿羅漢などの遺骨や遺品を埋めた塔)の事で、墓石にも転用されます。笠薬師塔婆は奉籠孔が何カ所かあいていますので、現世利益・来世利益を願う民衆の篤い信仰を集めた供養塔と考えられます。
昭和40年代初頭の工業団地造成に伴う道路建設時に、丁間稲荷神社境内に移されました。
死穢を嫌う神道ではあっても神社側は重要な文化財とみなして仏塔移設を受け入れたと思われます。受け入れるにあたり、覆い屋にしめ縄(紙垂がちぎれてしまっていますが)をはって浄化し、正月には門松を飾り、仏教石造物を受け入れたと考えます。

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