真田幸隆・昌幸の墓(長谷寺):長野県上田市

鎌倉・室町・安土桃山時代

 初めに真田昌幸の概略、その後墓碑について記述します。

真田昌幸の概略
・第一次上田合戦・・・1585年(天正13年)。武田氏滅亡・本能寺の変により信州・上州の支配権を徳川家康と北条氏直の領地争いは沼田を北条、佐久を徳川の条件で和睦しましたが、沼田を死守したい真田昌幸はこの裁定に従わず、上田城(家康の援助を受けて築城)・砥石城・矢沢城に兵2000で籠り、地の利を生かした防戦により徳川軍8000に大打撃を与えました。
・第二次上田合戦・・・通説では関ケ原の戦いに赴く徳川秀忠軍38000を上田城に3000で籠城し夜討ち朝駆けや偽の助命嘆願など手練手管を尽くして釘づけにし、秀忠遅参の原因となったとされる戦です(ただし、家康の急な方針転換に従ったまでとのの説が有力です)。
・関ケ原の戦いで石田三成方(大将は毛利輝元)に与したが、徳川方に与した長子信之の助命嘆願により処刑を免れた昌幸は紀州九度山に幽閉され65歳の生涯を閉じました(1611年、慶長16年)。信之は葬儀を幕府に願い出ますが許されず九度山に葬られました。

 六文銭が彫られた石門をくぐり、本堂の裏山に昌幸の墓は父真田幸隆・昌幸の墓(市指定文化財)と母親の墓と3基並んでがあります。

 戒名や年代が彫られているかは苔むしていてわかりませんでした。

 中央 父幸隆の墓  笑傲院殿月峯良心大庵主(長谷寺開基)
 左  母恭雲院の墓 恭雲院喜山理慶大姉
 右  昌幸の墓   長谷寺殿一翁干雪大居士
 いずれの宝篋印塔も小ぶり、柔らかそうな石質で古さを感じさせます。また、幸隆墓に比べ昌幸墓はやや小ぶり・質素な装飾となっています。

父・真田幸隆の墓

母・恭雲院の墓

 真田昌幸の墓(供養塔)

 もしかしたら遺髪や爪などが九度山から送られて、この地に葬られたかもしれません。

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