松谷の両墓制(十王堂の参り墓):群馬県東吾妻町

群馬県

概 要
 土葬の時代、福島県から山口県にかけて、加えて九州地方の一部で太平洋側、瀬戸内海側を中心に両墓制という墓制が存在していました。両墓制とは死者を埋葬する墓と供養する墓を持つ墓制の事です。
 群馬県では嬬恋村田代・今井、長野原町横壁・林・河原畑、渋川市上白井、南牧村星尾、片品村、板倉町で両墓制の習俗があったことが知られていますが、東吾妻町松谷にも両墓制があった事がわかりました。東吾妻町松谷の両墓制は隣接の長野原町横壁・林・河原畑と同一の文化圏のためと思われます。

(瀬戸内海の両墓制を訪ねる旅よりお借りしました)

十王堂

 死後の世界をつかさどる十人の王(不動明王・釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩・地蔵菩薩・弥勒菩薩・薬師如来・観音菩薩・勢至菩薩・阿弥陀如来)は人が亡くなって仏の世界に入って行く時の裁判官で、亡者は供養によってこれらの王に救われて仏界に送られるという教えに基づく仏堂です。
 東吾妻町松谷の松上地区にある十王堂は真田昌幸家臣横谷左近(幸重)の屋敷跡・雁が沢城(横谷城)跡が隣接しています。いつ命を失うか分からない戦国武士にとって心の安寧を得られる施設であったのでしょう。

 十王堂右側の墓石。数段にわたって並んでいます。やや乱雑な並びの印象を持ちますが、1945年吾妻線開通に伴う突貫工事で、線路周辺にあった石塔が集められたものと思われます。

 一方、十王堂の背後の墓石。こちらは整然と並んでいます。

 江戸時代の年号と共に2組の夫婦と思われる戒名が彫られている石廟。

 左側の墓石には昭和13年の紀年銘が彫られています。

松上地区古老の話 
松上地区の古老(2024年現在80歳前後)の話
 土葬の時代この地区は両墓制という墓制でした。西隣の長野原町から嫁いで来ましたが、長野原町横壁・林・河原畑地区が両墓制で、松上地区も同じ文化圏なのです。
 下掲地図で十王堂の北北東、山の中腹の黄色○あたりに、庵(現在は無い)と石仏がありますが、そこが埋め墓です。お参りは参り墓のある十王堂にします。

食堂店主(2024年現在80歳前後)の話
 子供の頃は上掲地図の橙色地点に土饅頭に川原石を乗せた祖母の土葬墓がありました。お参りは十王堂に行きました。火葬になってからは橙色地点に石塔を建てて現代風の墓にしました。
松谷地区古老(2025年現在80歳前後)の話
 山の中腹の黄色○にあった庵は横谷氏の位牌所でした。戦いで遺体を連れて帰ることができなかった時代位牌を安置した所で、大智庵と言いました。
 横谷氏は真田氏の上州侵攻に伴ってこの地区を領有し、真田昌幸・沼田藩真田氏(真田信之・信吉・熊之助・信政・信利)の時代は家臣として、信利改易後は大笹関所(嬬恋)の関守などをして江戸時代を過ごし、明治になって上田市に帰りました。

付録:百八灯祭
 盆送りの8月16日松上地区では百八灯が行われます。

 かつては提灯が灯されましたが、

 現在はペットボトルに変わっています。灯の竹軸は盆棚に使われた竹を再利用します。薄暮に蝋燭が灯されると地区の人々が、十王堂にお参りします。松上地区では送り盆行事として、百八灯が行われています。

考 察
 両墓制は集落から外れた地に埋め墓を、集落内或いは隣接地に参り墓を設けます。松上の両墓制もその原則通りでした。
 集落から離れた埋め墓は神道の影響で死の穢れを避けるためと言われますが、耕作地確保のため耕作不適地に設けたとも考えられます。かつて庵(大智庵)があって現在も石仏があるという埋め墓は既に道はなく草木に覆われて行ってみることはできませんでしたが、その地は人家から離れた山の中腹にあり耕作不適地と考えられます。
 十王堂の参り墓について堂の背後・両脇奥にあるものは古く、十王堂の敷地が狭く代を重ねるごとに増える石塔を敷地内に建てることができなくなり現在の線路部まで建てるようになったけれど、国鉄線工事にともない十王堂にまとめて移転されたので、十王堂に向って右側の石塔は前後左右隙間が無いほど密集しているのだろうと考えます。
 八ッ場ダム建設に伴う隣接の長野原町横壁の発掘調査では中世・近世の可能性もあるが、中世・近世の土壙では重複が少ない事や「両墓制は明治になってから」という伝承がある事から、近代の可能性があるとしています(参考②)。しかし、十王堂背後の舟形石塔群は1600年代前半に現れ1600年代一杯墓石の主流をなすものです(参考①)。それ以前は庶民に墓石を建てる文化・経済力は無く、松谷地区の両墓制の開始時期は1600年代以降と推測します。
 興味深いのは集落から外れているとはいえ、食堂店主家の埋め墓は山の中腹の黄色○とは違う場所にある事です。多くの家の埋め墓は山の中腹にまとまってあるのに、店主家の埋め墓は独立してある。しかし、参り墓は集落全員が十王堂に詣でる。

 松上集落の両墓制では、
・多くの家は 山の中腹に埋め墓・十王堂に参り墓
・店主家は  平地の個人墓地に埋め墓・十王堂に参り墓
 
 吾妻地方に火葬が普及したのは1960年代後半と思われます。火葬の普及に伴って両墓制から単墓制に変わったはずです。食堂店主のインタビューには子供の頃の参り墓・埋め墓の記憶が含まれています。60~70年ほど昔の記憶と思われますので、両墓制の末期の頃のように思われます。山の中腹に埋めるのは大変な労力なので、集落外の自分の土地に埋め墓を設けた。火葬の一般化に伴いそこに石塔を建て単墓制に移行したと考えられるかも知れません。
 現在はそれぞれの家が単墓制墓地を持っていますが、百八灯に見られるように仏教行事は十王堂を中心に行われています。

参 考
① 立正大学博物館:近世の墓石と墓誌を探る。2025年8月17日アクセス。
② 藤巻幸男・楢崎修一郎・能登 健:群馬県長野原町横壁中村遺跡の中世墓と同地区における両墓制の研究、P121-140、群馬県埋蔵文化事業団研究紀要34巻、2016年。

関 連
鵜戸山別当の両墓制様の墓(鵜戸神宮):宮崎県日南市

コメント

  1. ばし より:

    始めまして。あなたのブログを興味深く拝見いたしました。私の親戚が嬬恋村田代に住んでおりまして、そこも両墓制を昭和40~50年代までおこなっており、そのため両墓制について非常に興味を持っています。そして、田代には2019年まで埋め墓がしっかりと残っておりました。惜しくも2019年の台風で埋め墓はほぼ流されてしまいました。

    十王堂も見学しました。しかし、埋め墓も見学しようとしましたが、どうも斜面に存在し、民家があるため見学は諦めました💦あなたのブログをみてこのようなフィールドワークを行えたのは非常にありがたいと思いました

    • nomeshikoki17 より:

      コメントありがとうございます。松谷の両墓制は埋め墓は山の中腹(手入れされていないので、行くのは難しい)、参り墓は十王堂にあり、墓石の形状から江戸時代からは続いていたと思われます、長野原町川原畑や横壁、林などに両墓制がありその文化的つながりがあるようです(十王堂で話を聞いた80代のお婆さんは横壁出身でした)。残念なことに八ッ場ダム建設によりほとんどが沈んでしまいました。ダム湖畔にあるやんば天明泥流ミュージアムの女性学芸員が紹介してくれた「長野原町の民俗」に少し両墓制が載っています。
      もし可能でしたら、2019年の台風で崩れた埋め墓と参り墓の指標(例グーグルマップで右クリック:吾妻警察署なら36.57794236401549, 138.83295675950373)を教えて頂けませんか? 見学したいです。

  2. ばし より:

    返信が遅れてしまい、大変申し訳ありません。田代地区の埋め墓について三カ所あったみたいです上、中、下と分けられていました。上の座標は、36.4877480, 138.4575223です。中は、36.4867916, 138.4614806です。下の位置は分かりません。祖母曰く、まだあるとことですが、見つけられていません。

    ちなみに、渋川市金井の金蔵寺、渋川市子持村の雙林寺には古い土葬墓が沢山残されています。金蔵寺については、昭和末期に出版された「長野原の民俗」という書籍に紹介されていた岸家の土葬墓がそのまま残されてきます。古い墓石のそばに置き石があれば、それが土葬墓です。

    • nomeshikoki17 より:

      情報提供、大変ありがとうございます。近々田代に行ってみたいと思います。
      50年以上前のことですが、私の祖父母は土葬でした。中学生だったのでそれなりに記憶が残っています。東吾妻や中之条にも所々土葬墓が残っています。
      金蔵寺の岸家の土葬墓も見学したいと思います。