山上碑・日本最古の完形碑(上野三碑・国特別史跡):群馬県高崎市

平安時代まで

概 要
 山上碑(やまのうえひ)は1300年以上前の681年に造立されました。平安時代以前の古碑は全国に18例残るに過ぎず、宇治橋断碑に次いで2番目の古さ、完形としては最古碑です。
 放光寺の僧長利(ちょうり)が立てた母親黒売(くろめ)と自分の系譜の墓誌であり、隣接の山上古墳に葬られたと思われる黒売の供養塔としての性格も持っています。
 日本語の語順に漢字を並べて表した碑文は現在の日本語の漢字の用法の原形となるものです。

放光寺(山王廃寺)
 山上碑を立てた長利は放光寺の僧で、この地の豪族でもありました。人々は竪穴式住居に住み、国分寺・国分尼寺ができるより前に建てられた、東国一の大寺院です。
 当時の寺院は最先端の総合大学みたいなものですべての学問・衣食住・医薬・土木・工学など先端技術の発信施設でしたから、長利は大富豪かつ知識人として当時の超エリートでした。

山上碑
 その長利が立てたのが山上碑です。

碑文
 辛己歳集月三日記          
 佐野三家定賜健守命孫黒売刀自此   
 新川臣児斯多々弥足尼孫大児臣娶生児
 長利僧母為記定文也 放光寺僧

         (現代語訳と人間関係:現地解説板より)

 この碑から判る事は、この頃には漢文ではなく日本語の語順に合わせて漢字を使っていた事。安山岩など硬い石でも形を整える石工技術は既にあったが、自然石に文字を彫るのは朝鮮半島からの渡来人の影響と思われる事(資料①)。681年より前に放光寺はあった事。そして「放光寺僧」の記銘より寺名を公表された有力寺院で枢要な立場にあった人物である事がわかる事(史料②)、女性が亡くなると夫の墓ではなく実家の墓に葬られた事などです。
 墓誌の風習はは奈良時代に特徴的に見られます(資料③)が、それに先立つものです。

 山上碑・山上古墳に上る江戸時代に石段は坂東三十三札所巡りのために整えられたもので、石段も史跡指定されています。

山上古墳
 7世紀前半か中頃できた山寄寄せ式の円墳で、山上碑より山上碑が681年造立ですから、それより前の数十年前に築造されました。被葬者は黒売刀自の父親の墓と考えられ、後に黒売刀自が追葬されたと考えられています。ちなみに、桐生市新里町新川の中塚古墳が新川臣の墓、前橋市堀越町(旧大胡町)の堀越古墳が大児臣の墓と考えられているそうです(解説ボランティアの話)。
 江戸時代には坂東三十三札所巡りの四番札所としてにぎわいました。当時馬頭観音(室町時代)を祭った窟堂は無くなり、今は石室内に祭られています。

高崎市文化財保護課職員より伺った事
 古墳は被葬者の権力をあらわすものですし、山上碑も黒売刀自の供養と長利の家柄を示すもので、本来は人目につく所に造立されるはずです。

 ところが山上碑は山名八幡宮から西に2㎞弱進んだ谷合のひっそりした所に在ります。山名八幡宮付近は当時も開けていたと思われますが、山上碑周辺は当時も多くの人家や往来があった場所には思えません。
 なぜこの場所に古墳と碑があるのか、それが疑問で文化財保護係員が居る特別公開日に訪れ文化財保護係より教えてい頂いた事をまとめます(下掲年表参照:資料④)。
・当時は近くに往来があったのですか?・・・当時の往来(鎌倉街道)から外れた山間の中にあります。当時も人家は少なく往来も少なかった地と思われます。
・なぜ人目につかないこの場所に古墳と碑があるのですか?・・・私見ですが恐らく薄葬令(646年)と関係していて、当時の人口密集地総社の古墳群などは薄葬礼後も目立つところに造られているのですが、山上古墳は薄葬令を意識して人目のつかないところに築墳したのではなかと考えています。古墳がそこにあるのですから、碑も必然的にそこになったと考えています。 

大化薄葬令・・・蘇我氏を滅ぼし天皇家中心の国づくりを進める大化の改新の中で、646年(大化2年)に出されました。身分に応じて造れる墓を決めた法令です。

参 考
① 松田猛:上野三碑、みやま文庫、2019年。
② 前沢和之:古代東国の石碑、山川出版社、2008年。
③ 勝田至編:日本葬制史、P111、吉川弘文館、2012年。
④ 高崎市教育委員会:ユネスコ「世界の記憶」上野三碑。


関 連
放光寺僧長利
・山王廃寺跡(国史跡)・石造物と歴史:群馬県前橋市
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