概 要
死穢を嫌う神社に稀に仏塔がある場合があります。それは以下の①~⑤のいずれかと考えられます。
① 神格化された個人の墓が祀られている(徳川家康の東照宮、菅原道真の大宰府天満宮)
② 神仏習合時代、別当寺にあったものが神社境内に残った(近戸神社、新海三社神社、下植木赤城神社観応二年宝塔)。
③ 土地整備などで神社境内に移転された(丁間稲荷神社)。
④ 神社の移転先の土地に既に仏塔があった(波志江愛宕神社)。
⑤ その他(下植木赤城神社貞治五年多宝塔)。
そして、現在の神社はABいずれかの対応を取っています。
A:しめ縄を巡らす等の神道儀礼をおこなう(丁間稲荷神社、波志江愛宕神社)。
B:神道石造物と区別し、神道儀礼をおこなわない(近戸神社)。
波志江赤城神社境内には、しめ縄が張られ基礎部に「故宿赤城神社有」と彫られた宝塔があります。上掲④Aに該当します。直接的な史料はありませんが、なぜ神社に仏塔がありしめ縄が張られているのか、状況証拠から推測してみました。
波志江愛宕神社の移転

(波志江愛宕神社と金蔵寺の位置関係)

創建は不詳ですが、1187年(文治3年)に源頼朝家臣・佐位治官が築城するにあたって社殿を修理したと伝わっています。
そして、愛宕神社社殿造営記念碑に以下のように彫られています。
【愛宕神社の由緒は古く、波志江村字愛宕の古墳山頂に祀られた火産霊神として、愛宕大明神と称され、(中略)。
明治四十一年一月二十四日許可を得て境内末社及び、波志江無格十七社の神が合祀されました。
さらに大正二年秋、波志江金蔵寺と地交換して現在地大字波志江一五二三番地に遷祀、神楽殿が造営され(以下略)。】
元々は波志江村愛宕にあった愛宕山古墳(現在削平消滅)上に鎮座していた愛宕神社が1913年(大正2年)に金蔵寺脇の現在地(波志江)と土地交換して伊勢崎市波志江町1523番地に移転したことが分かります。
波志江愛宕神社宝塔(市文化財)


紀年銘はありませんが、植木赤城神社の観応2年(1351年)の宝塔と似た形状をしているので、南北朝中期(1350年頃)の造立と考えられます。

基礎部に故宿赤城神社有と後のものと思われる文が彫られています。
故宿赤城神社有・・・故に赤城神社に宿りて有り(そういう事で赤城神社が所有しています)。
「赤城神社」と彫られているのは、この愛宕神社は前橋・伊勢崎市に広がる赤城神社の一社であるからです。

宝塔の背後にまとめられた、五輪塔残欠。

宝塔の後方には庚申塔・青面金剛碑がまとめられています。元々は土着の庚申信仰に道教由来の青面金剛が結びついて独自に発展したものです。
こちらはしめ縄や御幣などの神道儀礼はなされていません。
考 察
まず神社移転年代を確定し、その後なぜ仏塔が境内にあるのか、なぜ故宿赤城神社有(故に赤城神社に宿りて有り)と彫ったのかを考えます。
愛宕神社社殿造営記念碑では大正2年に金蔵寺隣に移転、伊勢崎市解説板では明治時代に移転されたとされています。伊勢崎市解説板は【明治四十一年一月二十四日許可を得て境内末社及び、波志江無格十七社の神が合祀】(愛宕神社社殿造営記念碑)を移転と読み違えたものと考えられます。大正2年の移転で間違いないでしょう。
伊勢崎市解説板では【宝塔塔身部に「故宿赤城神社有」とありますが、明治期の神社合祀の際に追刻されたものと思われます】と記され、神社合祀の際他の神社にあったものを移転したと読み取れます。
しかし、そうでしょうか?
それより金蔵寺から取得した土地に元々あった、加えて宝塔背後にまとめられた五輪塔残欠も元々あったと考える方が妥当でしょう。
宝塔・五輪塔はほとんどの場合追善・逆修供養塔(墓石)ですから、土地取得時に金蔵寺側に移転させても土地に穢れが残って解決策とはならず、故宿赤城神社有と神社のものである事を明確にした上で塔身にしめ縄を巻いて浄化していているのだろうと考えます。
後方にある庚申塔・青面金剛碑は墓石神道儀礼はなされていません。
波志江赤城神社では宝塔・五輪塔は追善・逆修供養塔(=墓石)であるから神社境内に置くためには浄化が必要であるけれど、民間信仰の庚申塔・青面金剛碑は墓石ではないので神道儀礼は行わないという事が読み取れると思われます。
関 連
・神社に仏塔(大國神社の石幢):群馬県伊勢崎市
・神社に仏塔(二宮赤城神社の宝塔・五輪塔・石仏):前橋市二之宮町
・神社に仏塔(丁間稲荷神社の笠薬師塔婆):前橋市問屋町
・神社に仏塔(近戸神社の六地蔵石殿・宝塔):群馬県前橋市
・神社に仏塔(新海三社神社の三重塔と宝塔):長野県佐久市

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