概 略
江戸時代大名家などは家同士の政略結婚の面が強く夫婦別姓でした。庶民は江戸時代前半には別姓墓が、末期には「同人妻」「同人妻○○」のように妻の姓が消えている墓が見られるようになります。
明治になっても制度的には夫婦別姓でしたが、「岡部かつ」さんのように人々は夫婦同姓を希望し明治31年の旧民法改正で夫婦同姓となりました。
これらの事実から夫婦別姓墓は「家」を、夫婦同姓墓は「家族」を意識して造立したのではないかと考えました。
ただし、旧民法改正後でも夫婦別姓しかも戒名無しの墓がありました。これは跡継ぎ同士の結婚には高いハードルがあったからだと推察します。
※ 姓と氏は別物ですが、江戸時代頃より混同されるようになりました。本稿では姓と氏を区別なく使っています。
夫婦別氏・同氏の歴史的変遷(概観)
大宝律令の頃は夫婦別氏、夫婦同氏両方あったのかもしれません。
702年(大宝2年)の筑前国国嶋郡川戸里の戸籍で父物部、母葛野部とあり、子は全て物部を継いでいます。母が妾の場合も子は全て物部を継いでいます(参考①)。夫婦別姓です。
710年(和銅3年)の下総国葛飾郡大島郷の戸籍で戸主・妻・妾・子すべて孔王部(あなほべ)を継いでいます(参考②)。夫婦同姓です。
当時は中国文化の影響が大きかったので基本的には夫婦別姓が大原則だったろうと思いますが、統治者にとって必要なのは口分田の班給量、税(租庸調)の徴収量、徴兵の該当者が分かればよいので、戸籍上は夫婦別姓、夫婦同姓はそれほど厳密に統制されていなかったのかも知れません。
平安時代では生まれた子供は母方で育てられ、男の子ならば男親の姓を名乗ることが許されました(参考③)。
大まかなまとめ
・江戸時代までは夫婦別姓でしたが、庶民間では厳密ではありませんでした。
・1876年(明治9年)太政官指令では妻の氏は「所生ノ氏」(=実家の氏)を用いることとされる(夫婦別氏制)と明文化されました。江戸時代までの慣習を引き継いだためです。
・しかし、この太政官指令はあまり守られなかったようで、実情に合わせ1898年(明治31年)の旧民法では夫婦はどちらかの家の姓を名乗ることとされました(夫婦同氏制)。
・旧民法下では「跡継ぎ同士の結婚」は廃家手続きのハードルが高かった(参考④)。
・日本国憲法下の昭和22年改正新民法(750条)は、「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する。」としています(選択的夫婦同氏制)。
・中国や韓国では古来からの慣習で現在も夫婦別氏です。儒教の教えから血の繋がりを重んじているためです。
夫婦別姓の意義として、一妻多妾(正室側室)の場合に妾間(側室間)に順位をつけないと、能力的に同等の子供の場合の後継争いが生じ易くなります。別姓であれば家格に応じた順位付けがしやすかったようです。つまり夫婦別姓には社会階級を小分けする思想がありました。
江戸時代の墓
例1



江戸時代のご夫婦の墓(再建墓)で、夫婦別姓です。1658年(万治元年)に亡くなった新井京太さんと、同じく1658年に亡くなった蓑浦絹江さんが眠っています。
例2

本譽至遂居士・真譽〇禅大姉の墓


夫の小林太助義株さんは1816年(文化13年)に亡くなり、1836年(天保7年)に亡くなった妻は「同人妻」と記されています。
こちらも夫婦別姓のはずですが、生活上は同じ家族として「姓」にはこだわっていなかった事が推測されます。
例3
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善慶道入信士・善妙蓮休信女の夫婦墓
夫は1813年(文化10年)に亡くなった町田○○○さん
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妻は1848年(弘化4年)に亡くなった「同人サイ」さん。
こちらも夫婦別姓のはずですが、生活上は同じ家族として「姓」にはこだわっていなかった事が推測されます。
明治時代の墓
例4

鑑譽祐純居士・光譽輪貞大姉(前妻)・純譽妙祐大姉(後妻)の墓。



夫と前妻は江戸時代に亡くなっていますが、本稿は「姓」を主題にしているので、後妻が亡くなった明治の墓と分類しています。また、先妻「はま」さんの記銘は例3と同じです。
夫岡部傳左衛門さんは1861年(萬延2年)に亡くなり、後妻岡部かつさんは1883年(明治16年)に亡くなりました。
明治4年の太政官布告で江戸時代の夫婦別姓を引き継ぐ国の方針が示されましたが、岡部かつさんは国の方針に反して岡部姓を名乗っていたことが分かります。
例5

祢津幸道法印(1857年・安政4年没)・同妻緒栞大刀自(1890年・明治23年)
祢津幸道法印は修験院の院主でした。祢津幸道さんは仏式、「同妻緒栞」さんは神式で祀られました。明治政府の神仏分離政策の影響で、修験院が廃止されたことが影響していると思われます。
そして名字ですが夫婦別姓の太政官布告可出ているにもかかわらず、夫婦同姓になっています。
例6

夫は土屋文次郎、妻は浅井てるさんです。


浅井さんの方は風化と苔で読み取りにくいのですが明治40年代(10の位は四のように思われますが、1の位が読み取れません)に亡くなられたようです。土屋さんの方には、嘉永二年(1849年)生まれで明治39年(1906年)に亡くなったということが彫られています。1898年(明治31年)旧民法で夫婦同姓制度に改められた後も夫婦別姓のままで過ごしました。
考 察
役所などに出す書類では名乗れませんでしたが、江戸時代庶民も名字を持っていました。僅か3基ですが、1600年代の新井墓(例1)では妻の名字「箕浦」が彫られているものの、1800年代の小林墓(例2)では「同人妻」、町田墓(例3)でも「同人サイ」でした。
明治4年の太政官布告(戸籍法)で夫婦別姓が国の制度になりました。しかし、岡部墓(例4)では「岡部傳左衛門」さんの妻は「岡部かつ」さんと彫られています。国の法律に反して夫婦同姓を名乗っています。
この岡部かつさんの銘から、江戸時代の例2・例3の「同人妻」「同人サイ」も、明治時代の例5「同妻栞緒」の「同人」は夫婦同姓を意味するものと考えるのが妥当と思われます。
これらの墓の奥方或いはこの墓を建てた子孫は、別姓より夫婦(家族)の一体性を選んだと考えます。
僅かな墓碑からの推測ですが、年代的には江戸時代末期(少なくも1800年代)以降、庶民は別姓より家族の一体性を重視した意識の表れが読み取れます。そして江戸時代までの上流階級の慣例に倣い明治政府は夫婦別姓を提唱しました(太政官布告)が庶民層の支持を得られず、旧民法(明治31年)では夫婦同姓となりました。
明治時代の夫婦別姓実名墓(例6)について考察します。
太政官布告時代は夫婦別姓でしたが、土屋・浅井さんは結婚されていたか?
次の両方の場合が考えられると思います。
① 跡継ぎ同士なので・・・片方を「廃家」にしなければならず、家名を残すため結婚せず事実婚として過ごした(夫婦別姓婚に見えるけれど、結婚していない)。
② 跡継ぎ同士ではないので・・・別姓婚で過ごしてきたが、夫婦同姓制になってもそれまでのまま過ごした。
土屋家の墓として祀られているので、明治31年の旧民法改正後の晩年には姓を揃えて結婚することができるようになったのです(ただし依然、跡継ぎ同士の結婚には非常に高いハードルがありました)が、庶民は江戸時代後期には別姓婚を望んでいませんでしたから、②の可能性は低そうです。「私の代で浅井家をなくすことはできない」と考え、それ以後も事実上の結婚生活を送られたのだろうと推測します(①)。
仏式墓は以前から戒名が彫られ、明治期から広まった神式墓は実名の下に「命・刀自」などと彫られています。ご夫婦の墓は形式上は仏式でも神道式でもありませんが、周囲の状況から仏式の墓石に実名だけが彫られていると考えられます。
墓石の前面に実名を彫った理由として、以下の2点理由を考えてみました。
A 跡継ぎ同士で正式な結婚ができなかったため、戒名をつけることを寺から拒否されたのではないか?
B 戒名を前面に出すより、妻の家の姓「浅井」を残したかったのではないか?
庶民は家族を意識していましたからBは考えにくいと思いますので、この実名墓の存在はAが理由かと推測します。
まとめ
明治31年の旧民法成立まで長い時代、「家制度」を意識した夫婦別姓でした。その当時の墓碑は殆ど戒名のみ彫られ個人名は分かりませんが、数少ないながらも個人名が彫られた墓碑・妻の名字が彫られた墓碑があります。その墓碑からは、「家族」意識が伺い取れます。当時もそういう意識の夫婦が多かったと思われます。
現在でも「○○家・○○家の結婚披露宴」「○○家の墓」のように家意識は見られます。しかし、「家族としての姓(=夫婦同姓)」意識が少なくとも1800年代には(実際はもっと古くから)あったと考えます。
なお、現在の民法は戸籍上は夫または妻の姓に揃え、通称(例:結婚前の姓)使用は認められます。また、廃家の概念はありません。
参 考
①井戸田博史:江戸時代の妻の氏、奈良法学会雑誌、12巻3・4号、2000年
②奥富敬之:苗字の歴史学、講談社学術文庫、2019年。
③法務省HP:我が国における氏の制度の変遷
④石司法書士事務所:旧民法の用語解説(廃家の項参照)
関 連
江戸時代の夫婦別姓に対する意識の変化:墓標から

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