隠れキリシタンというと九州のイメージが強く、地元群馬県にあるとは思っていなかったのですが、取り締まりが厳しくなると、西日本から佐渡や東北に逃げて潜伏し、特に、治外法権的な場所になっていた鉱山やその周辺は、潜伏先になり易かったようです。関東地方各地に隠れキリシタンがいたようです。
【東庵 此者、下野国安蘇郡芦尾金堀之由、元和四戌年上野国沼田領師村戸神村 金山御座候、同領川場村能越、寛永七辰午年欠落仕候、正保元甲年切支丹宗門之由、従江戸由来候得共、欠落以後之義行衛不知、且又年令父母。訴人之義相知不申候】(1681年川場門前組 ※1 「古切支丹死失存命帳」 ※2 名主八右衛門)
※1 古切支丹とは生涯改宗に応じなかった信者を指します。
※2 下で述べる東庵を援助した名主八右衛門の息子(名前の世襲)。
【沼田ヨリ宗門多出申候。東庵ト申イルマン同前ノ宗門御座候】(1658年幕府宗門奉行北条守房「吉利支丹出申国所之覚」)

これが隠れキリシタンのものといわれている墓石(村指定文化財)。前面に次の3行が刻まれています。
延宝七季辰未年(1679年)
雲巌亮景居士
七月十八日
仏式墓なら珍しい模様
戒名の「景」は景教=キリスト教を表しているのではないかという事と後述の被葬者の経歴から隠れキリシタン墓の可能性が高いと思われる墓です。

墓石の上部の半円形の刳り込みに、家紋かもしれませんが花のような陽刻があります。

下部中央にも花のような線刻があります。彫られている場合は蓮の花が多いはずですが、この模様は蓮には似ていません。メノーラー(燭台)に似ているようにも思いますし、小泉(参考①)は殉教者のシンボル「棕梠(シュロ)」ではないかと考えています。
上下の模様は隠れキリシタン墓と関係あるとはいえないかも知れませんが、珍しいと思います。

比較用に同一墓地にあった屋弛型墓碑・舟形墓碑4基を挙げます。上部の半円形の刳り込みには何も彫られていません。下部の模様は左端1基に認められるのみです。

左端の墓碑下部には何らかが彫られていますが、半三郎の墓碑と同じ模様では無いようです。

この墓石の被供養者は東庵次女おまの夫、半三郎です。
生前の半三郎を取り巻くのは下記の人々です。
イルマン(教導士)同然東庵・・・半三郎の義父。足尾銅山で鉱夫として潜入していたキリシタン東庵が、銀の採掘が始まった頃の1618年(元和4年)足尾から川場村に移動して名主八右衛門の援助を受けて暮らしました。教導士同然の布教活動を行っていました。しかし1630年(寛永7年)頃、妻子を置いて行方をくらましました。以後の消息は不明です。
次女おま・・・半三郎の妻。名主八右衛門の養子となり、八右衛門の弟半三郎と結婚。
沼田藩4代藩主真田信政・・・東庵の親族としておま、まりと半三郎を捕らえました(1644年)。信政が松代藩を継ぐために沼田を去った1657年(明暦3年)年、捕らえられて13年後、半三郎は川場に戻りました。
おま・まりは29年後の1673年(延宝元年)に幕府宗門奉行の吟味を受け放免されました。吟味には地元吉祥寺の僧と谷地・門前の名主八右衛門(半三郎の兄か甥)が付き添いました。
放免後、おまは川場に戻り、まりは戸鹿野村(沼田市戸鹿野町)で生涯独身で暮らしました。
半三郎の墓を建てたのはおまかも知れませんし、他の知り合いかも知れませんが、その人物が「景」の文字を入れて建てたでしょうから、その人物もキリスト教信者だったのかも知れません。

なお、聖母マリアを模したのではないかと言われる子育慈母観音(マリア観音:川場村谷地1718)があります。マリアベールのようなものをを被った面長の顔が、確かにそんな連想を抱かせます。紀年銘がないので江戸時代の造立か禁教令が廃止された1873年(明治6年)以降のものかはっきりしません。
参 考
① 小泉初男:真田領のキリシタン活動について、群馬文化224号、1990年。
注1 2024年9月27日、4基の屋弛み型墓碑・舟形墓碑との比較、子育て慈母観音についての2カ所加筆しました。
注2 2025年4月7日、小泉初男の「棕梠」説を追記しました。
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