鎌倉公方方の年号(正長三年)が彫られた楽間の宝塔:群馬県高崎市

群馬県

概 要
 高崎市楽間町の井野家墓地内にある中世宝塔3基(市指定文化財)。
 宝篋印塔や五輪塔が高崎市全域に分布するのと異なり、高崎市北西部の榛名山南東麓に分布し、榛名山の山岳信仰や密教思想に裏付けられた石造物です(高崎市掲示板)。
 3基の中には「正長三年」と鎌倉公方方の年号が彫られたものがあります。鎌倉公方足利持氏と6代将軍足利義教の対立の当時、上野守護でもあった関東管領上杉憲実は足利持氏の側に近かった事が推測され、永享9年塔(1437年)、嘉吉3年塔(1443年)の間の永享の乱(1438年持氏は憲実・義教に倒されます)があり、いつ命を落としてもおかしくない戦乱の中で心の安寧を得るために造立された逆修供養の宝塔3基です。

※ 鎌倉公方・関東管領・・・足利尊氏は関東を治めるため鎌倉府を置き、その長である公方は四男基氏を初代とし世襲されました。同時に、公方を監視・補佐するために関東管領が置かれ、こちらは上杉氏(山内・扇谷・宅間・犬懸)が世襲しました。

 以下正長3年塔(1430年)、永享9年塔(1437年)、嘉吉3年塔(1443年)の順に、宝塔全体と基礎を挙げます。

正長三年
逆修之諸衆
十月廿三日

 1430年(正長3年)に一統をまとめて逆修供養したという意味か。正長は2年までで、正長3年=永享2年です。足利義教の6代将軍就任に反発した鎌倉公方足利持氏は改元(正長→永享)に反対し、正長の元号を用い続け、幕府に対する不服従の態度を示していました。
 関東管領上杉憲実は将軍と公方の仲を修復しようと動いていました。

逆修
書寫法華
一十三部
永享九十一月七日
一烈大檀那 敬白

 1437(永享9)年この地で大きな勢力を持っている頭領が法華経13部を書写納経した逆修供養。
 翌1438年鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実の対立に端を発し、6代将軍足利義教が持氏討伐を命じた永享の乱が起こっています。この塔の当時、持氏の信濃出兵とそれを止める憲実の対立が激しくなってきます。
 1438(永享10)年鎌倉山内館にいられなくなり、平井城(群馬県藤岡市)に退去します。持氏は平井城に兵を向けますが、憲実は義教の加勢を得てを持氏・義久(持氏長男)を滅ぼします(憲実は助命を求めたが義教が許さなかった)。

奉逆修
道國禅門
嘉吉三年
十一月廿八日

 1443年(嘉吉3年塔)道國禅門という在家地侍が逆修供養のために建てたという意味か。1441年には6代将軍足利義教が殺害されています(嘉吉の乱)。

考 察
 鎌倉公方と室町幕府・関東管領の対立をはじめとして大小の戦乱が頻発していた時期です。
 永享2年(1430年)ではなく正長3年と刻まれている事から、室町幕府足利義教の改元に反対する鎌倉公足利持氏の勢力、それは上野守護でもある上杉憲実に従う勢力ですが、その直後にその永享の乱、関東管領上杉氏⇔上杉氏家宰長尾氏、上杉氏同士(山内家⇔扇谷家)、山内上杉氏内(平井城⇔鉢形城)など関東は戦乱が続きました。
 いつ命がなくなるか分からない戦乱の世で、心の平穏を得るには仏教に帰依し自分・一族郎党を逆修供養する必要があったのでしょう。
 なお、上野長野氏が記録に登場するのは上州一揆(1477年)の長野為兼です。宝塔造立当時長野氏はすでに一定の勢力をこの地に持っていたかも知れませんが、宝塔との関連は不明です。

関 連
① 白井長尾氏歴代墓所・須弥壇型宝塔群(空恵寺):群馬県渋川市
② 足利長尾氏墓所(心通院):栃木県足利市

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