新田氏累代の墓(円福寺):群馬県太田市

群馬県

 太田市は平安末期から南北朝期まで新田氏の本拠地でした。
 新田氏は源義家→源義国→新田義重(長男)と連なる源氏の嫡流です。源義国の次男義康が祖の足利氏は庶流ということになります。しかも足利義康が若くして死去したため、足利氏2代義兼は伯父である新田義重の庇護を受けて育ちましたから、当初は新田氏の方が勢力がありました。
 しかし、源頼朝の平氏討伐に足利氏義兼は参加し、新田義重は中立を保ったため、新田氏は鎌倉政権内では軽んじられました。一方足利氏は執権北条氏と姻戚を繰り返し鎌倉政権内で重用され、足利氏の庶流のように見なされる逆転現象が起こっていました。
 新田氏は義重→義兼→政義→政氏→基氏→朝氏→義貞と続きます。

 円福寺(太田市別所町)は4代政義が京都大番役の任務中に仁和寺へ無断出家(1244年寛元2年)したため、所領を一部没収され由良郷別所に移居した時、創建しました。4代~7代(政義→政氏→基氏→朝氏)の位牌が祭られています。

 境内には群馬県指定史跡「新田氏累代の墓」があり、1981年(昭和56年)に発掘が行われ、墓地は現状のようになりました。発掘では同時に中国製骨蔵器、建武5年(1338年)銘の板碑、北宋銭、経石、仏具などが発掘され、累代墓は鎌倉中期から南北朝時代頃のものと裏付けられました。

 五輪塔に混じって多層塔や板碑の台石がありました。全くの想像ですが多層塔は開山塔かも知れません。

 特に注目は右から2番目にある五輪塔。

「沙弥道義七十二。元享四季」などの文字が見えます。沙弥道義は新田義貞の祖父6代基氏の法名です。「沙弥」は在俗出家した武士が沙弥西仏、沙弥行心のように名乗ります。時代が下ると信玄、謙信などの法名を名乗るようになります。
 1324年に造立された新田基氏の五輪塔は、被供養者が判明する群馬県内五輪塔の初見例です。

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