概 略
花十字が彫られたキリシタンの墓(県指定文化財)です。弾圧前のキリシタン墓は伏碑です。
幕府は禁教令(1612年)で「墓石は立てて、戒名を刻むべし」と墓碑の形態も定めました。「元和七年卯月 一瀬志ゅ阿ん」と彫られたこの墓は、禁教令後(1621年)に立てられ、立碑になっていますが洗礼名が刻まれています。
解説板ではキリシタン墓になっています。洗礼名が刻まれている点で「隠れ」「潜伏」では無いように思われますが、禁教令後に造立された立碑であることに加え、この墓石の立地を考えると「隠れキリシタン墓」といっても良いものではないかと考えます。
※ 島原の乱で島原地方のキリシタンは一掃され隠れキリシタンも居なくなりました。しかしが、大村藩では事情が違います。キリスト教弾圧の時代、1657年(明暦3年)608人が捕まり、411人が処刑された「郡崩れ」が起きましたから、この墓が造立された当時間違いなく隠れキリシタンは存在していました。
大村藩の宗教情勢
日本で最初のキリシタン大名大村純忠(1533~87年)は信仰並びに経済的利益・軍事的利益のために領民にキリスト教を奨励し、神社仏閣を排斥しました。長崎港・横瀬港をイエズス会に寄進し要塞化された町はポルトガル人商人でにぎわい、領民すべてがキリスト教徒となりました。
大村藩初代藩主・喜前(純忠の子:1569~1616年)は加藤清正の勧めもあって1602年日蓮宗に改宗し、以降キリスト教弾圧に変わります。幕府の禁教令(1612年)に従って、全国的にもキリシタン弾圧が厳しくなった時代です。
2代藩主頼純(1592~1619年)は洗礼を受けていませんから心情的にもキリスト教とは疎遠と思われます。大坂の陣(1614年)の直前には幕命により長崎の教会を破却していますし、1615年家督を譲られて以降、1617年にはイエズス会・ドミニコ会・フランシスコ会・アウグスチノ会の宣教師4人を斬首しています。萬歳山本教寺を菩提寺に定め、深重山妙宣寺を開きました。
3代藩主純信(1618~1650年)は法輪山妙経寺、番守山妙法寺、長昌山妙法寺を開きました。家臣の大村彦右衛門は、神社仏閣を排斥した純忠の時代にキリシタンによる弾圧を避けるため大村から脱出する途中でキリシタンに捕まり殺害された僧・峯阿乗(1574年)を悼み、阿乗の遺体を埋めた場所に大日堂を建立建立しました(1647年)。
キリシタン墓碑の形態(参考①)
1549年キリスト教伝来以降キリシタン墓碑が造立されることになります。
紀年銘のある日本最古のキリシタン墓碑は1581年(天正9年)大阪府四条畷市にある礼幡(れいまん)墓碑で、2番目に古いのは大阪府八尾市の1582年(天正10年)銘八尾・マンショ墓碑ですが、両墓碑とも仏教式立碑に似ています。この時代は、基本的には木製十字架や大十字架碑(クルザード)の周囲に埋葬するだけで特別な地上標識は作らないのが一般的でした。
1600年代に入るとヨーロッパがルーツと思われる本格的なキリシタン伏碑伏碑が登場します。
全国のキリスト教の信徒数は1601年当時で約30万人、禁教令が出された1614年当時で37万人前後だといわれています。大村藩では大村純忠時代6万人の領民のほとんどがキリスト教徒であったようです。
幕府の禁教令(1612年)では、「墓石は立てて、戒名を刻むべし」と墓碑の形態も定められました。

一瀬志ゅ阿んの墓(冒頭写真2基のうち左側)

立碑中央に花十字、

下方に 元和七年卯月 一瀬志ゅ阿ん と彫られています。
元和七年は1621年・・・3代藩主純信の時代に造立されました。
一瀬志ゅ阿ん・・・志ゅ阿んはジュアンと読み、ポルトガル語でヨハネにちなむ男性名です。言語によりヨハネス(ラテン語)、ファン(スペイン語)、ジャン(フランス語)、ジョバンニ(イタリア語)、ジョン(英語)、イワン(ロシア語)、ヨハン・ハンス(ドイツ語)、ヤン(ポーランド語・チェコ語・オランダ語・デンマーク語)などと呼ばれます。

県指定の有形文化財です。
考 察
解説板の「元和元年はキリシタン弾圧が激しくなろうとする時期で」の文言に疑問があります。
初代大村藩主喜前は1602年日蓮宗に改宗以降キリスト教弾圧に変わって、幕府に恭順を示すために萬歳山本教寺を菩提寺に定め、寺院を再建するようになりました。幕府の禁教令(1612年)もすでに発令され、寺請制度も全国的に実施されています(1618年)。2代藩主孫頼純(1592~1619年)は洗礼を受けていませんから心情的にもキリスト教とは疎遠と思われます。長崎の教会を破却し、宣教師を斬首してもいます。
一瀬志ゅ阿んの立碑墓が造立(1621年)されたのはこれらの後の初代・2代藩主の方針を継ぎ寺院再興に尽力した3代藩主純信時代です。ですから「元和元年はキリシタン弾圧が激しくなろうとする時期で」には疑問があります。

上掲は南島原市有家町中須川のキリシタン墓碑です。弾圧が無かったか緩やかだった1600年代初頭に造立された伏碑で、その後弾圧が激しくなると地中に埋められたというのがキリシタン墓碑では一般的です。
一瀬志ゅ阿んの墓はキリシタン弾圧が全国的に実施された後である事、立碑である事が1600年台初頭のキリシタン墓碑と異なります。
1549年のキリスト教伝来から関ケ原までの時代では、キリシタンの墓も立碑のものがあります。1600年台に入ると伏碑にかわり、弾圧が強くなると仏教墓を装う隠れキリシタン墓と変わるようです。
手持ち史料では、隠れキリシタン墓碑(群馬県川場村・上野村)と今富のキリシタン墓碑(長崎県大村市)が立碑です。そして、今富のキリシタン墓碑も時代状況的に考えて隠れキリシタン墓碑と考えます。
上記3例と異なる点は、墓碑正面に花十字、正面下部に戒名ではなく「一瀬志ゅ阿ん」と彫られ、「隠れ」ていない事です。
上掲解説板の冒頭文には元々「瀬戸郷の一瀬家の屋敷内(参考②)」にあったと書かれていました。以下は推測ですが、屋敷内にあるのなら人目はかなり避けられます。屋敷神を装った祠内や建屋内に安置されていたとすれば、人目につくことはまず無いと思われます。
当時の大村藩の時代状況・立碑・敷地内にあった事等を勘案すれば、キリシタン墓碑というより、隠れキリシタン墓碑と考えるのが妥当と考えます。
参 考
①西南学院大学博物館:キリシタン考古学の世界
②トライックスカフェ:東彼杵町キリシタン墓碑
関連記事
隠れキリシタン墓
・隠れキリシタンの墓(如法寺他):福島県郡山市・須賀川市
・隠れキリシタンの墓(今富のキリシタン墓碑):長崎県大村市
・隠れキリシタンの墓:群馬県川場村
・隠れキリシタンの墓:群馬県上野村
キリシタン墓
・砂原キリシタン墓:長崎県南島原市
・原城跡とキリシタン墓:長崎県南島原市
・有家町中須川のキリシタン墓:長崎県南島原市
・口之津町白浜のキリシタン墓:長崎県南島原市

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