概 要
約700年間続いた弥生時代のすべてに渡り吉野ケ里遺跡で生活が営まれていましたが、吉野ケ里遺跡は弥生時代後期後半(紀元3世紀頃)を復元整備対象時期としています。この時期は40haを超す国内最大規模の環壕集落へと発展し、周辺の集落を従えたクニの中心に発展し、邪馬台国をほうふつとさせました。
吉野ケ里遺跡で不思議に思うのは、土塁と壕の位置関係です。
内域の並び→逆茂木→壕(空堀)→土塁→外部(外土塁・内壕)は、中世山城の外壕・内土塁とは逆になっており、防御機能を考えると不合理です。
本稿では地形的側面から考察し、内環壕は生活空間の排水を考慮した結果という仮説を提案します。
※ 本ブログは石造物がテーマで、「壕」はテーマから外れますが、本視点は仮設として面白いのではないかと思い掲載します。
外土塁・内環壕の意味
防御目的であれば、敵←逆茂木で距離をとり←壕に落ちた所を、土塁・柵の後ろから投石や弓で迎撃するのが合理的です。
しかし、吉野ケ里遺跡では上掲写真の右が敵側←土塁・柵←環壕←逆茂木←内域という外土塁・内壕になっています。しかも壕を埋め立てて土橋を造っていた(参考1)ので浅く、敵の動きを制限しやすいV字底ではなくU字になっています。加えて土塁の上面の柵の裏側が狭く、敵を迎え撃つには移動が制限される造りです。逆茂木も45度の角度が効果的と思われますが立ち過ぎています。
外土塁・内壕の機能について、在野の研究者の捕虜収容所としての性格と考える説(参考2)、内土塁だと集落の面積が狭くなる説(資料3)などありますが、説得力に欠けます。
埋文よこはま(参考4)に弥生中期の大塚遺跡の外土塁・内壕の意味について「以前は、当時の社会は戦争・戦乱があり、そのため集落の防御という見方が強かったのですが、関東地方の集落では一部を除き土塁や木柵があったという例は乏しく、このことからも戦いのための防御施設だけの機能は想定しづらくなっております。居住範囲の区画や、集団の内と外、土地の区画占有意識の表れだったともとらえられていますが、はっきりした答えは分かっていません」とあり、専門家内では壕は防御機能中心に考えるべきではないと論が変わって来たようです。
吉野ケ里の環壕・条壕

この北内郭(政治・祭祀の郭)のみ環壕は深くV字型で、その後方に土塁・柵で囲まれた建物があるという常識的な配置です。
北内郭以外は


低い外土塁・浅い内壕です。


外部から北墳丘墓にも浅く幅の広い条壕が続きます。階段もあります。この壕は吉野ケ里のクニを構成する近隣のムラ人の墳丘墓への参拝道になっていたそうです。
吉野ケ里遺跡の歴史

(吉野ケ里歴史公園パンフレットより)
弥生時代全期700年に及ぶ吉野ケ里遺跡は南部から北部へと広がっていきました。
・弥生前期・・・2.5ha規模の環壕集落。
・弥生中期・・・20ha規模以上の環壕集落へと発展。環壕跡内部から大量の土器や石器が出土し、低地からは外洋航行船を模したと思われる船形木製品が出土。数点の朝鮮系無文土器(片)も出土。中国・朝鮮・国内各地と交易していたようです。
吉野ケ里を含む北部九州で受傷人骨が多く見られます(参考6)。
・弥生後期・・・集落は北方へと規模を拡大し、40haを超す国内最大規模の環壕集落へと発展。周辺のムラの物資を集積し市の可能性もある高床倉庫群が設けられています。
解説員に伺ったところ、弥生後期の200年間は争いは無く、壕には廃品・ゴミが多量に発掘されたそうです。吉野ケ里遺跡は復元時期を復元しています。
発掘復元の方針
遺構面の上に30cm以上の保存盛土をし、さらに整備に必要な盛土をその上に行い、遺構を壊さずに、当時あった場所の真上に復元しています。
弥生時代後期を想定して、環壕遺構の底部より50㎝以上盛土した上に往時の深さ、幅で復元しています。
弥生時代の地勢

(吉野ケ里歴史公園パンフレットより)

(水土の礎より)
地球が現在より温暖化すれば低地部は海に沈み、寒冷化すればより低地部が陸地化します。
吉野ヶ里遺跡は現在、脊振山南麓から佐賀平野に向かって細長く伸びた段丘上にあり現在の標高は約7~20mでですが、弥生時代は5m程海面が高く(参考7)、吉野ケ里や周辺のムラは海面に面し当時の海抜は2~15m程と推測されます。加えて、当時と川筋は変わっているでしょうが東に田出川、西に城原川に囲まれています。

(田出川と左堤防の奥が吉野ケ里遺跡)
外土塁・内壕に関する条件のまとめ
防御性能の観点から
①柵の後部の土塁頂の幅が狭すぎて、ここに立って投石・弓を射るとしたら、不安定すぎ、機動性に欠けます。
②弥生後期に埋められたため壕は浅くU字になっており、防御性は低くなっています。
③逆茂木は敵との距離を保つなら45度にしておくのがベストですが、角度が立ちすぎています。
戦の無い時代
④解説員の話では、後期の200年間は戦らしき跡は見つかっていません。
⑤周辺のムラを従えて、市が立ったり墓参りも行われていました。
⑥吉野ケ里は弥生後期を想定して復元されています。
壕・土塁の必要性(低湿地)
⑦現在は海抜7~20mに位置しますが、当時は海面が5m高く、海抜は2~15mでした。
⑧南を有明海、東を田出川、西を城原川に囲まれています。
考 察
弥生時代は稲作の適地・財産(米など)を求めて戦いが激しかった時代と言われます。吉野ケ里では中期まで戦いの痕跡があります。激しい戦いがあれば、防御性能から外環壕にしたはずですが、吉野ケ里は最要所の北内郭以外は外土塁・内壕になって、しかも弥生後期に壕は埋められて浅くなりました。
内環壕は防御機能を考慮してではなく、弥生後期の争いのない時代の低湿地に存在するという地勢的特徴を考慮し、排水機能を重視したためではないかと推測します。
竪穴式住居は竪穴縁に土盛りしたり(下掲写真矢印部)、竪穴内を粘土で固めて、防水対策を施してはいますが、内環壕・条壕が共同体インフラとして必要だったのではないでしょうか?
農業では排水の悪い圃場に用いられる額縁明渠(農地の周囲を30cmほど掘り窪める:参考8)と同様な機能として考えられそうです。
つまり、
A 天候的必要性・・・台風や集中豪雨の時など地面に雨水が滞留すれば、玄関口から・土盛り部を浸食して竪穴部に入り込むことが予期されますから、速やかな排水路として。
B 地形的必要性・・・もともとの低湿地に加え、地表からしみ込んだ水は低地(竪穴式住居の土間)へ滲出し易いので、壕を堀り巡らす事により壕への滲出を促す。

排水の観点からは内土塁は内域の滞水時間を長めるだけで阻害要因になってしまいます。内環壕や条壕を巡らせる事が竪穴式住居の快適性につながります。そして外土塁は田出川・城原川の氾濫時の堤防の機能が期待されたと考えます。
外周の逆茂木ですが、外敵にまず対峙するはずが最内域に位置します。加えて、敵を近寄らせない機能を考えれば45度前後が効率的ですが、角度が立ち過ぎています。戦いの無い時代、お守り程度の扱いだったのではないでしょうか。内域の土塁・壕に逆茂木は付属しないのも排水目的であれば理解できます。
参 考
1 吉野ケ里歴史公園HP
2 岡本孝之:外土塁環濠集落の性格
3 邪馬台国図書館HP:環濠の土塁は内側か、外側か(その2)
4 埋文よこはま:横浜の弥生環濠集落、2016年
5 佐賀県文化課文化財保護・活用室:ナゾホルよしのがり
6 藤原哲:弥生時代の争いに関する一視点、あいち朝日遺跡ミュージアム研究紀要、2022年
7 (一社)農業農村整備情報総合センター(水土の礎):有明海の造陸現象
8 宮崎県 農業経営支援課・農産園芸課・農村計画課:農地の排水対策検討手順書、2021

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