概 要
1921年塔芯礎が発見され、山王廃寺跡と名付けられました。その後の発掘調査から古墳から仏教へ変わる時代の東日本最古級の本格的仏教寺院であり国分寺・国分尼寺より先に建てられた寺院である事、隣接の総社古墳群の主上毛野氏が作ったのではないかという事、当時は放光寺と呼ばれ国分寺に準ずる格式の定額寺であった事などが判明し、世界記憶遺産「上野三碑」の一つ山上碑(681年)との関連も判明しました。
本稿では塔芯礎・石製鴟尾など石造物を中心に、前橋市立総社資料館の展示物写真・前橋市教育委員会のパンフレット内容を引用しつつ山王廃寺跡を紹介します。

山王廃寺の高度な石造技術からは隣接の宝塔山古墳・蛇穴山古墳の主、大和王権との繋がりが強かった上毛野氏が創建したと考えられます。


上毛野氏の宝塔山古墳・精巧な切積石技術の石室
上野国分寺・国分尼寺より早く建てられ、国分寺に準じる格式ある「定額寺」でした。しかし、荒廃がひどくなり1030年に荒廃常額寺から外してほしいとの願いが出されています。



塔芯礎(上)・覆い屋・レプリカ(下)

東西3m南北2.5m、厚さ1.5mの石を加工した、五重塔の心柱を乗せる基礎石です。中央には仏舎利を納める穴があいています。
十字の線彫は東西南北を指しています。
根巻石



石製鴟尾

鴟尾側面(上)、正面(下)


瓦葺屋根の大棟の両端につけられる飾り。瓦の伝来に伴い、火除けのまじないとして飛鳥時代に大陸から日本へ伝えられたと考えられ、石製鴟尾は山王廃寺と鳥取県伯耆町の大寺廃寺のみです。
個人蔵鴟尾の方が保存状態が良く、黄色線部分を比較していただくと違いが顕著ですが、両鴟尾はデザインが異なります。金堂の大棟に2対になっていたのか、別の建物に乗っていたのか議論の余地があるようです。
放光寺

※ 資料中、長利(ながとし)と読んでいますが、僧ですから「ちょうり」ではないでしょうか?

山上碑(681年。高崎市山名町。完形で残るものとしては国内最古の石碑)
出土物


感 想
一般民衆はまだ竪穴式住居に暮らしていた時代の大伽藍。80m四方の回廊、天を衝くような五重塔、大きな石製鴟尾に守られた金堂や講堂、境内では薬草なども栽培されたでしょう。
大和王権から遣わされた石工・大工(瓦は窯業が盛んだった近隣の安中市秋間産)の下、駆り出されてた民衆は大和の王様に信頼され新羅征伐や蝦夷対策で功績を挙げた上毛野君(かみつけぬのきみ)を誇らしく感じたことでしょう。
近くには上野国総鎮守総社神社、国分寺・国分尼寺跡、総社古墳群・前橋市立総社歴史資料館の充実した展示などがあります。また隣の高崎市に山王廃寺(放光寺)の僧長利が立てた山上碑(多胡碑・金井沢碑と合わせ上野三碑)などがあり、1日ではまわり切れない山王廃寺関連史跡が集中しています。
参 考
・前橋市立総社歴史資料館内資料(山王廃寺に加え、総社古墳群・力田遺愛碑・秋元氏関係の資料が整っています)
・前橋市教育委員会:山王廃寺跡~古代の前橋へタイムトリップ~

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