黒田官兵衛(如水)の墓とキリシタン長政の苦悩:福岡市

江戸時代

概 略 
 黒田如水(官兵衛)・長政父子をはじめとする福岡藩主黒田家の墓(市指定文化財)が崇福寺の裏手にあります。戦後の区画整理によりこの地にまとめられたものです。長政墓はその時再建されたものですが、如水墓は往時のものです。
 如水・長政はキリスト教に帰依していました。如水はキリスト教葬を希望し、実際長政は官兵衛のキリスト教葬を行いました。しかしその半月後、当時の宗教情勢から福岡藩52万石の太守として江戸幕府に恭順の意を示すために崇福寺墓所に改葬しました。その改葬墓を紹介します。

黒田官兵衛(如水・孝高:1546~1604年)
 毛利氏と織田氏の狭間に揺れる小寺氏の家老黒田織孝の嫡男として生まれ、織田方に就く事を君主に勧めます。荒木村重が織田信長に反旗を翻した時長く幽閉されるなど苦労の末に、鳥取城攻め(1581年)、備中高松城攻め(1582年)、大阪城普請奉行(1583年)、四国征伐(1585年)など信長・豊臣秀吉の下で活躍し、竹中半兵衛と共に軍師「両兵衛」として重用されました。秀吉の猜疑心を感じ取り家督を長政に譲り、如水を名乗り隠居を装います。しかし、関ヶ原の戦いでは九州・中国地方制覇を目指して戦います。関が原が1日で終了してしまったために、野望は潰えます。嫡男長政が52万石福岡藩主となるに従い、福岡に移りました(1600年)。
 1583年受洗(洗礼名ドン・シメオン)。
 1602年博多に教会設立。

黒田長政(1568~1623年)
 官兵衛の嫡男で秀吉の九州平定、朝鮮出兵などで活躍。特に関ケ原の戦いでは東軍につき小早川秀秋や吉川広家などの寝返りの工作を行い、また武闘でも最前線で石田三成軍と戦い、一番の功労者として称えられ、福岡藩52万3千石の大守となりました。
 海外交易が盛んな地に加え、博多人形や博多織、高取焼など伝統工芸の復興に力を入れ、商業の町として博多を発展させました。
 長政は1587年20歳の時弟黒田直之と一緒に洗礼を受けます(洗礼名・長政ダミアン、直之ミゲル)。
 官兵衛が1604年京都で没すると、官兵衛の希望に従い博多教会のキリシタン墓地に葬りました。人目につかないよう夜間に立ち入り禁止区間を設け近親者のみで行いました(詳細は末尾博多のキリシタン史跡を紹介(黒田如水の墓と葬儀)をご覧ください)。 
 その半月後、黒田家菩提寺崇福寺に改葬。幕府に忠誠を示すため、こちらは盛大に行われました。また、京都大徳寺に、如水を弔う塔頭龍光院を建立しました(1606年)。
 1613年博多教会を破却、宣教師を追放。

黒田官兵衛の墓

 博多のキリシタン墓地から崇福寺に改葬された時のものです。

 黒田如水の墓石には、龍光院殿如水圓清大居士碑の文言を先頭に、景轍玄蘇(聖福寺第百九世、日朝・日明交渉の中心にあった外交僧)の撰文が4面に刻まれています。
 凝灰岩の墓石に文字に金箔を朱漆で接着した名残で全体的に赤みを帯びています。
 大東亜戦争末期の福岡空襲などによる荒廃から復興する過程において、崇福寺黒田家墓所は1950年(昭和25年)現在地へ5分の1の面積に移転集約されました。往時は御霊屋、石塔、灯篭他、二十数基の墓碑堂塔がありましたが風化や空襲などで焼失ました。移転集約時の発掘では遺骨等発見されませんでした。

黒田長政墓

 長政の墓は1950年の移転改葬時に新たに作り直されたものです。
 

考 察
 キリスト教棄教前後の長政の苦悩について考えます。
 官兵衛が受洗して5年後(1587年)20歳で洗礼を受けたという事は、官兵衛を通して遅くとも15歳頃(実際はそれより幼少時)からキリスト教に親しんでいた訳です。秀吉が伴天連追放令(宣教師追放で、信仰自体は禁じていません)を出した年に弟と共に受洗している訳で、長政には強い信仰心があったと思われます。
 官兵衛が亡くなった1604年当時、大村純忠・大友宗麟・有馬晴信・小西行長・蒲生氏郷らキリシタン大名は既に亡く、大村家・大友家・有馬家・蒲生家は棄教改宗、関が原敗北後小西家は取り潰し、高山右近は加賀前田家の管理下に置かれる(1614年国外追放)という情勢の中、長政が平穏でいられたとは思えません。
 博多教会を作り、キリスト教葬をして欲しい官兵衛の遺志を継ぐ事と、藩経営せねばならぬ長政の苦肉の策が、夜間に部外秘で一旦キリスト教葬で埋葬し、直後崇福寺に大々的に仏式葬する事であったのだと思われます(一般には崇福寺にて大々的に葬儀が行われた、と思われるように)。
 1950年黒田家墓地改葬時の調査では遺骨等は発見されませんでした。可能性として、長政は官兵衛をキリスト教墓地で眠らせたい(遺骨はキリスト教墓地に残したい)と思っていたのかもしれません。本稿の官兵衛墓碑は供養塔なのだろうと思われます。
 幕藩体制の中で領国経営を行うには、キリスト教棄教が望ましいと理解しながらも官兵衛のくびきがあって棄教できなかない状態が続いたけれど、くびきが無くなった事もあり、禁教令(1612年)が出る頃には棄教は仕方ないと割り切れたのでしょう。父親が作った博多教会を破却(1613年)し、宣教師を追放しました。

追 補
 黒田家墓所は藩祖黒田如水、初代長政、4代綱政、5代宣政、6代継高、7代治之、9代斉隆、10代斉清とその一族などが祀られています。福岡空襲により焼失しましたが1950年(昭和25年)改葬工事が行われ、石塔は如水、長政等の一部を除き合葬墓となっています。
 現在は崇福寺から福岡市に管理移管され、土日に見学可能です(駐車場無し)。
 東長寺黒田家墓所(博多区)には2代藩主黒田忠之、3代藩主黒田光之、8代藩主黒田治高の五輪塔があります。
 11代以降は東京港区青山霊園にあります。 


参 考
・中津市教育委員会:初代中津城主黒田官兵衛をたどる、2013年
・カトリック福岡司教区HP:博多のキリシタン史跡を紹介(黒田如水の墓と葬儀)
・キリシタンの書斎HP:殉教者列伝(10)-福岡藩における殉教

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