概 要
岩櫃城主真田昌幸が武田勝頼を迎え入れるために築いたとされる古谷(こや)館。その館は岩櫃城廃城後、祢津潜龍斉がもらい受けて江戸時代を通じて修験寺潜龍院として存在しました。その潜龍院院主家の墓です。
潜龍院は明治の修験禁止令(1872年、明治5年)によって廃院となりました。
潜龍院概要
織田・徳川連合軍に加え北条軍も武田領に攻め込み、木曽義昌・穴山梅節ら武田家臣も次々に寝返る中、武田勝頼は真田昌幸の岩櫃城に移るか小山田信茂の岩殿城に移るか迷った末、岩殿城に向います。
勝頼は岩殿城に向い小山田信茂の裏切りに会い天目山で果てるのですが、真田昌幸が武田勝頼のための御殿として建てたのが古谷館です。下図のような位置関係で岩櫃城(柳沢城・郷原城含む)の一部になります。


潜龍院跡
潜龍院は院主祢津家のもと、1869年(明治2年)の修験禁止令まで続きました。


その後潜龍院は顕徳寺(東吾妻町原町)の本堂として移築されました。顕徳寺本堂屋根の垂木飾りには武田菱が使われています。
祢津潜龍斉家の墓

法印墓を経時的に並べます

當院四世
幸成法印 墓
承応三年(1654年)

巌下山八世
茂篁木乃紘之墓
寛政二年(1749年)

法輪法印秀繁
宝暦十二年(1762年)

雲洞幸龍墓
嘉永二年(1849年)

祢津幸道法印之墓
安政四年(1857年)
同妻緒栞大戸自之墓
明治二十三年(1890年)
その他の墓を経時的に並べます

○○○○○○大姉霊位
元禄十四(1701年)

水碧高大信士 霊
宝暦三(1753年)

錦縫玉線大姉 灵位(灵=霊)
明和六季(1769年)

義皃操順大姉之墓
寛政九年(1797年)

覺妙超悟大姉 之墓
文化十三年(1816年)
考 察
墓石のデザインから
本来法印は仏教者の最高位ですが、時代が下るにつれて末端の僧まで法印を名乗るようになりました。
潜龍院4世から8世の墓の間で、華やかな基礎になり無縫塔の頂部に尖りが出てきます。そして祢津幸道法印が亡くなって建てたのか緒栞大刀自が亡くなって建てたのか定かではありませんが、無縫塔の輪郭をかたどった板碑型墓碑の頭頂部にも引き継がれます。
祢津幸道法印・同妻緒栞大戸自の墓から
① 江戸期(安政4年)に亡くなった祢津幸道法印は仏式墓、明治23年に亡くなった同妻緒栞大戸自は神式墓という神仏混合の夫婦墓になっています。神仏分離令(1869年:明治元年)が出て、神と仏を分けたため神仏習合の修験道は存在することを許されなくなり1873年(明治 5年)に修験道廃止令が出て職業として修験院を運営できなくなり、神主になったと推測します。
② 夫婦墓は江戸後期から見られます。多くは2人の戒名を彫ったものですが、稀に戒名に加えて「同人サイ」「同人妻」などと彫られたものがあります。前者2例に比べ明治23年の「同妻緒栞」は妻・名前が彫られてより個人としての存在が意識されてきているように思われます。
「水碧高大信士 霊」墓から
祢津家の男性墓は法印墓ですが、1基信士墓があります。次男以下は婿に出るなどしたと思われますが、水碧高大信士は潜龍院に残り嫡男の下で手伝いをされたのだと思われます。戒名は「院号+道号+戒名+位号」の構成になっていますから、この墓の場合水碧・高大・信士となります。大信士ではありませんが、労をねぎらうために一瞬大信士と錯覚する戒名にしたのかも知れません。

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