薩摩藩主島津家墓所と神仏分離(国史跡・福昌寺跡):鹿児島市

江戸時代

概 略
 1868年(慶応4年)神仏分離令(神仏判然令)により神社と仏教寺院は分離される事になりました。あくまで分離のみを目指したものですが、それを主導した新明治政府内で力を持った薩摩藩では徹底的な寺院排除が行われ、幕末に1,066あった寺院は全て廃寺。2964人いた僧侶も還俗を余儀なくされました。
 寺院排除は島津宗家墓所がある福昌寺も例外ではなく、廃寺となりました。その時、墓石群も「改号 ○○命」と神式諡号が彫られました。
 本稿では福昌寺跡の島津宗家墓所に見られる神仏分離令の影響を紹介します。

島津家と仏教
 鎌倉時代初めの年、島津家の祖島津忠久が近衛家(藤原氏)領島津小荘の荘官に任じられました。その後、源頼朝に薩摩・大隅・日向3国の守護に任じられ島津家南九州の守護大名、戦国大名へと発展し九州のほぼ全土を支配しましたが、豊臣秀吉の九州征伐により3国の旧領に戻されました。
 関ケ原の戦いでは西軍に属しましたが領地を安堵され、江戸時代は77万石という大藩となりました。また、琉球を介して清と交易し利益を上げていました。 
 幕末には討幕運動の中心勢力となりました。
 島津家は仏教を篤く信仰し、鎌倉から南北朝時代は時宗を、室町時代は曹洞宗を信仰し、14代当主忠良1492~1568年)は日新公家訓(日新公いろは歌)に「仏神他にましまさず人よりも心に恥ぢよ天地よく知る」(神仏はどこにでもいるものではない。自分の中にいるのだ。恥ずべき行動をしたら、自分の良心に恥じよ。世間は欺けても自分の心は欺けない)と残しています。
 ただし、阿弥陀如来の下では主上も臣下もなく皆びょうどうという一向宗の教えは民衆統治の上では都合の悪い教えであり、加賀一向一揆や三河一向一揆、石山本願寺城合戦など実情を知って、幕府の政策であるキリスト教禁教に加え一向宗(浄土真宗)の信仰も厳しく禁じました(慶長2年から明治9年まで)。
 島津家は明治維新以降は神道を信仰しました。

福昌寺墓所

(福昌寺跡解説板より)

 福昌寺は7代当主島津元久が開基で、1394年(応永元年)に建立されました。最盛期には1500人の修行僧がおり南九州一帯に2000~3000の末寺を抱える曹洞宗の大寺でした。6代師久から28代斉彬までの歴代当主と家族の墓が営まれました。
 神仏分離令(1868年、慶応4年)以後鹿児島藩内のすべての寺院は破却されました。日新寺・南林寺など歴代当主の菩提寺も全て神社に変えられました。福昌寺は島津家菩提寺ということで特別に残っていましたが、29代忠義(1840~1897年)の妻・暐姫(1869年、明治2年没)の葬儀を神式で行うこととなり、福昌寺も破却されました。
 現在、玉龍山福昌寺跡には玉龍を冠した鹿児島玉龍中高一貫教育校が建っています。

島津元久(1363~1411年)の墓

 恕翁玄忠大禅定門。墓石に彫られている文字は太字。以下同じ。

 改号 弥高真性男命

島津義久正室花舜夫人(?~1559年)の石殿

 塔身内の石塔に
戒名 花舜妙香大姉
神号 高光偉慶姫命(改号)

島津義久(1533~1611年)の墓
 島津家16代当主。九州制覇をほぼ目前にしていた時に発出された惣無事令に従わず秀吉の派兵(九州征伐)を招きました。いくつもの戦いを経て薩摩一国安堵の条件で秀吉に下りました。
 関ヶ原の戦い時、弟義弘の援軍依頼を断り九州内で加藤清正・黒田如水らと戦いました。

戒名:妙谷寺殿貫明存忠庵主
 島津家の宝篋印塔は、通常梵字が彫られる塔身部を位牌形状に彫り窪め戒名を彫っています。

神号 大国豊知主命(改号)

島津義弘(1535~1619年)の墓
 島津家17代当主。関ヶ原の戦いで「島津の退き口」をした人物です。

戒名:妙円寺殿松齢自貞庵主

神号 精矛巖健雄命(改号)


島津家久(忠恒)室亀寿(1571~1630年)の墓

戒名:持明彭摠庵主興国寺殿。

神号:珍寶持明姫命(改号)

島津久光の墓(1817~1887年)
 島津家当主にはなりませんでしたが、29代当主忠義(元久長男)を補佐し廃仏毀釈を進めました。廃寺(1869年、明治2年)となった昌福寺跡に鳥居を建て、神道墓所にしています。大久保利通らを重用する一方、西郷隆盛とは相性が良くなかったようです。

神号:前左大臣従一大勲位侯爵之墓
 儒教墓でよくみられる顕彰碑形式です。神道と儒教は相性が良いようです(儒家神道)。

考 察
 福昌寺が1869年(明治2年)に廃寺になる前は、南九州一の大寺として、77万石の大藩の墓所に相応しい威容を誇っていましたが、島津久光の廃仏毀釈政策により、鹿児島から寺院がすべて破却されたため、現在に至っても鹿児島県の人口10万人当たり寺院数は47都道府県中少ない方から4番目です(下図)。東京・神奈川で10万人当たり寺院数が少ないのは人口密集地と関係があると思われます。沖縄県は江戸時代は琉球王国として独自の葬送文化があったためと思われます。

寺院総数人口10万人当たり
44位鹿児島県487寺29.75寺
45位東京都2,882寺21.15寺
46位神奈川県1,896寺20.73寺
47位沖縄県87寺6.05寺
          都道府県別ランキングで見る県民姓より

 天草などキリシタン大名のもとでそれ以前の神仏造形物が破却され現在に伝えられていないように、鹿児島では廃仏毀釈によって同じことが起った訳です。
 島津家の歴代墓は福昌寺境内に仏式で営まれて来たわけですが、さすがに石塔類を打ち壊して破却する事はできませんでした。しかし、本稿に掲載した墓塔には全て側面に「改号 ○○命」と神号が彫られています。神仏習合時代、神道墓は存在せず神官の墓も仏式でした(※)。島津家の墓塔に見られる神号は全て廃仏毀釈による産物です。
 なお、現在の神道諡号(神号)は「○○○○+大人命、○○○○+刀自命」(○○○○は実名)等とするのが一般的が、「戒名風文字列+命」となっているのは、まだ神号の様式が定まっておらず戒名の影響が残ったためと思われます。
 久光ら島津家の人々も墓塔群を破壊する事に抵抗があり、すべての墓塔に「改号 ○○命」と彫る事、以後の墓地を寺跡から移動させる事(29代以降は常安峯)で妥協した結果であろうと思われます。  
 鹿児島県内で明治以降建てられた寺は江戸時代弾圧された浄土真宗(一向宗)寺院が最大シェアを占めるのが興味深い所です。

 なお、初代は鎌倉市西御門、2~5代は本立寺跡(鹿児島市)、感応寺(出水市)にあります。

※ 神仏習合時代の神官墓については、以下を参照してください。
〇 宮司の墓(鵜戸神宮)
〇 諏訪大社神官 神長官守矢家の墓
〇 諏訪大社神官 大祝諏訪家の墓


参 考
1 尚古集成館HP:島津家が運営する島津興業のHPが大変分り易く大部分はこのHPを参考にしました。2024年5月アクセス。
2 都道府県別ランキングで見る県民性:都道府県別寺院数 2024年5月アクセス。
3 川路瑞紀:廃仏毀釈のゆくえー鹿児島県日置市「妙円寺詣り」の事例ー。関西学院大学社会学部紀要、132号、2019。

追 補:島津重豪公碑
 27代当主斉興が祖父である25代当主重豪への想いを書いた亀趺碑(1839年、天保10年)で、全部を読むと亀が動き出すと伝えられています。亀趺碑は大大名の儒式墓で見られる形態ですが、儒学と神道は親和性があります。
 見学時あいにく工事中で近寄れませんでした。

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