須弥壇型宝篋印塔・三原田の宝篋印塔群(興禅寺):群馬県渋川市

群馬県

概要 三原田城址に立つ興禅寺の墓地に開拓豪族三原田氏(永井家)の12基の中世宝篋印塔群(市指定文化財)があります。その内の1基は埼玉県北部から群馬県のみに分布する須弥壇型宝篋印塔であり、歴史的には上野・武蔵国守護代白井長尾氏の須弥壇型宝塔群に影響されての造立と考えられそうです。

 鎌倉時代、興禅寺(渋川市赤城町三原田)一帯に築城年代は不明ですが三原田城は三原田義高によって築かれた三原田城がありました。
 貞治年間(1360年代)に長尾氏が上野守護代として白井城を拠点とすると支城としての三原田城は永井氏に預けられたと伝えられています。
 その永井家の宝篋印塔群が興禅寺本堂裏手の墓地の一角にあります。

 この12基の宝篋印塔は室町時代の1396年(応永3年)から1487年(長享元年)の紀年銘を持ちますが、私が読み取れるものは1基のみでした。しかし幸運なことに、その1基が須弥壇型宝篋印塔でした。それが上の写真右から4番目のものです。

 基礎と塔身の間に、勾欄と階段が彫られた須弥壇が挟まれています。須弥壇型宝篋印塔(中段型宝篋印塔)は群馬県と埼玉県北部のみに見られる形式です。

逆修(生前供養)久堂〇〇
應永三十四歳(1427年)
〇〇〇〇(月日が彫られているようです)

考 察
 須弥壇型宝篋印塔の主、永井久堂(法名)の時代、白井長尾氏は長尾景仲が関東管領山内上杉氏の家宰、上野国・武蔵国守護代を勤め、隆盛を極めていました。
 その白井長尾氏歴代墓所は空恵寺(渋川市上白井)にあり、須弥壇型宝塔が並んでいます。
 久堂は家臣として墓所に参拝し圓忠(1424年・応永31年没)ら白井長尾氏歴代須弥壇型宝塔群を目にしているでしょうから、逆修供養塔造立時にそれに倣ったのではないかと想像しました。
 久堂は須弥壇型宝篋印塔で、白井長尾氏の須弥壇型宝塔とは違う形の墓塔を立てていますが、家臣として遠慮したのかも知れませんし、永井氏の伝統が宝篋印塔だったからかも知れません。
 豊臣秀吉の小田原征伐(1590年・天正18年)時に北条氏に従い白井長尾氏が領地を失うまで永井氏は家臣でいたと思われますが、久堂以外須弥壇型宝篋印塔は造立されてません。白井長尾氏にとって久堂は大きな功績を挙げたので、須弥壇型が許されたのかも知れません。

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