概 略
大分県有形文化財指定の2基の板碑に刻まれた年号「正慶元年(1332年)」は北朝、「元弘3年(1333年)」は南朝の年号であり、鎌倉幕府滅亡から南北朝時代にかけての動乱期に造立された角塔婆と板碑です。また、当時陣僧として活躍したであろう時宗僧の切実な願いが刻まれている板碑であると考えられます。
大分県宇佐市安心院(あじむ)町の佐田神社境内にある板碑4基です。右端の角塔婆と右から3番目の板碑が大分県指定文化財になっています。


【右端の角塔婆】
正面下部に「元弘三年癸酉八月廿日、願主示阿」
高さ1.63m。示阿が願主となり1333年(元弘3年)造立されました。
板碑は一般的には板状のものですが、こちらの板碑は方柱をなし角塔婆とも呼ばれています。

【右から3番目の板碑】
正面下部に4行にわたり「右志者天長地久御代円満也」「正慶元年(1332)〇〇八月十八日」「四十八日時衆八十人各敬白」「願主示阿」と刻まれています。正慶元年に願主示阿をはじめ80人の時衆が阿弥陀に天長地久御代円満を祈願して建てた、というような意味でしょうか。
高さ109cm。1332年(正慶元年)造立。
考 察
まず、当時の情勢を顧みてこの板碑の目的を考察します。次に、死穢を嫌う神社になぜ仏塔があるのか考察します。
板碑の目的
右から3番目の板碑は武蔵型板碑(関東型)と違い、厚みのある塔身をしています。九州地方ではこのようなデザインの板碑が多いようです。

右から3番目の板碑に刻まれた「正慶元年(1332年)」は北朝の年号で、右端の板碑に刻まれた「元弘3年(1333年)」は南朝の年号であり、下記の年表のような南北朝時代の不安定な政治情勢を反映しているように思われます。
・1327年 護良親王(後醍醐天皇の子)天台座主に。
・1331年 光厳天皇(持明院統)即位。護良親王、比叡山を脱し大塔村へ。
・1332年 後醍醐天皇、隠岐に配流。護良親王、吉野山に入る。
・1333年 5月鎌倉幕府滅亡。
6月後醍醐天皇、帰京。
・1334年 1月建武の新政。
・1335年 足利尊氏と後醍醐天皇決裂。護良親王殺害される。
・1336年 1月足利尊氏九州へ敗走。
5月足利尊氏京都へ盛り返す。楠木正成戦死。
10月足利尊氏、後醍醐天皇を花山院に幽閉。
11月足利尊氏、室町幕府を開く。
12月後醍醐天皇京都脱出。吉野山に入り南北朝時代始まる。
このような不安定な政治状況のもと、大分県内屈指の青山城主佐田氏の居館があったのが現在の佐田神社とも言われています。
右端の角塔婆・右から3番目の板碑に彫られた願主示阿は当時隆盛を極めた時宗の僧と思われます(〇阿は時宗の阿号)。
戦に帯同した陣僧は浄土宗系(特に時宗)がほとんどで、調停役となって停戦や和解の仲介をするだけではなく、武士が戦場で討ち死にした場合、陣僧が十回南無阿弥陀仏と唱えて極楽往生へ導き、且つその活躍の様を遺族に伝えるという働きをしていたようです。また、三昧僧として火葬に当たったのも時宗僧が中心でした。
この板碑群は時宗僧らが戦の無い世の中が訪れる事、戦死者の供養、佐田氏の繁栄が続くことを願って、もともとは佐田氏居館内外に造立したものと思われます。
死穢を嫌う神社になぜ仏塔があるのか?
神社に仏塔がある場合、以下のいずれかに該当すると筆者は考えています。
① 神格化された個人の墓が祀られている
② 神仏習合時代、別当寺にあったものが神社境内に残った
③ 土地整備などで神社境内に移転された
④ 神社の移転先の土地に既に仏塔があった
⑤ 例外(境内に仏塔として建てられたと考えられる石塔)
建内宿禰・須佐之男命・大山祇命と勇猛な武神を祭る佐田神社がいつ創建されたかは不明ですが、鎌倉初期・1325(正中2)年・1466年(文正元)年・1503(文姫)年に再興されています(参考①)。
元々あった佐田神社を包含する形で佐田氏居館ができたのか、細川氏の家臣となった佐田氏が熊本藩移封(1632年)に帯同して去った居館跡に佐田神社が移転してきたのかは不明ですが、板碑群は佐田氏居館内外に建てられていたものと思われます。いずれの時にか現在地にまとめられたものと思われます。
したがって、③④のいずれかに該当すると考えます。
参 考
① 心院町身心すこやか事業推進委員会 編:ふるさと佐田、安心院町身心すこやか事業推進委員会、1988年。

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