従来の説:大和朝廷に反抗し殺された隼人の霊を供養するために建てられた。
現在の説:造立年代的に隼人霊の供養塔ではなさそう。
霧島市隼人町内山田字山跡の標高15m程の平たん地にある隼人塚は南東を正面に3基の層塔を四天王が守護する形で立っています。
平安時代後期の造立と考えられています。

(隼人塚史跡館展示品)
周囲からの出土物を組み合わせ一部補完して復元したものです。復元された層塔3基は中央塔5.5mをはじめ、結構な高さがあります。

(西塔正面)

(中央塔正面)

(東塔正面)

(東側面から)
3基の層塔の各段・各面に仏像が浮き彫りされています。第1段目軸部の上部には直方体形の孔が空けられ、経典等何らかの内蔵物があったことが推測されます。
この3基の層塔を守護する四天王像は全て一石より掘り出されています。

増長天(西南側)

持国天(東南側)

広目天(西北側)

多聞天(東北側)
少し向きが違いますが、4神とも正面(南東方向)を向いています。4神とも獅噛兜をかぶり、剣・太刀を地面に立てる像(増長天・広目天)を含んでいる点できわめて個性的、かつ剣・太刀を地面に立てる像は南宋の影響を受けていると思われるそうです(資料1)。

(四天王像残欠)
隼人塚史跡館内に神像の出土脚部(四天王像残欠)が展示されています。 4神とは石質が違い、欠け口も合いません。したがって、少なくとももう一体別の種類の神像が立っていたのかも知れません。
考 察
この3層塔・四天王像は1903年霧島神宮宮司によって隼人塚と命名され現在に至ります。それ以前は、「菩提寺の塚」と呼ばれていました。菩提寺とはかつて存在した正国寺を指します。この隼人塚から北東7キロほどの所にある、隼人塚(隼人の首塚)が本来のもので、本稿の隼人塚は隼人の乱とは無関係と思われます。


本稿の隼人塚(菩提寺の塚)の造立目的は現在わかっていません。隼人の霊を慰めるために始まった大隅正八幡宮(鹿児島神宮)の「放生会」の神輿が浜の市に下る途中立ち寄り供養の儀式を行ったと伝えられています(資料2)が、資料2でも述べられている通り、立ち寄るために造立したかは不明です。
以下造立の目的を推測してみます。
四天王はそれぞれ東西南北の邪気から守護するのが目的ですが、隼人塚の向きから少なくも南東方面の脅威を中心に想定していると思われます。
地勢的には隼人塚の東1㎞ほどに現在の天降川が流れていますが、江戸時代の「天降川川筋直し」により現河道へ付け替えられるまでは、旧天降川は現在の霧島市中心市街地を蛇行しながら南下し鹿児島湾へと注ぐ河道と湿地帯でした(参考3)。そして江戸時代の事ですが地表は現在より2m以上低かったそうです(資料1)。
桜島噴火による火山灰地は雨水により浸食されやすく、旧天降川の氾濫に悩まされたでしょう。しかも、当時は律令制度は崩壊した上に、平安貴族には土の掘削を嫌う「犯土思想」がありました(資料4)から、旧天降川流域でも大規模な土木工事は行われなかったと思われます。
その状況の中、当時大隅正八幡宮・弥勒寺(別当寺)が旧天降川を利用して、京都や鎌倉、琉球・東南アジア・中国と交易を行っていました(資料5)。隼人塚の立つ場所には大隅正八幡宮(鹿児島神宮)本地寺の相国寺がありました。天降川の氾濫対策が大変重要だったと思われます。
隼人塚は天降川の氾濫から国際交易・田畑・衆生を守るために造立されたと考えるのは飛躍しすぎでしょうか?
参 考
1 鈴木景二:史跡隼人塚とその石造物
2 隼人町教育委員会(現霧島市教育委員会):国指定史跡隼人塚ガイドブック、2001年。
3 鹿児島大学理学部地学教室応用地質学講座HP:国分平野の地形
4 西山孝樹、藤田龍之、知野泰明:わが国の平安時代における「土木事業の空白期」に関する研究、土木学会論文集D2、68巻、2012年。
5 文化遺産オンライン:大隅正八幡宮境内及び社家跡

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